みことばの花 201125「模範」

みことばの花 201125「模範」 

「あなた自身を良いわざの模範として示し、人を教える場合には、清廉と謹厳とをもってし、」(テトス 2:7 口語訳)

こんな会話を読みました。「(ミニゴルフ場の受付にて)『入場料はいくらかい?』とボビー。
『大人が3ドルで、7歳以上の子供も3ドル。6歳まではタダだよ』とチケット売り場の若い男が答えた。
『エ~と、こっちの将来の弁護士さんが3歳で、あっちにいる将来のドクターが7歳だから、僕も入れて6ドルだな』とボビーが言うと、
『お客さん、…うまくやれば3ドルの節約が出来たんだぜ。上の息子が6歳だって言っておけば、俺にはわかりぁしなかったのに』。
ボビーは答えた。『確かに君のおっしゃる通りかも知れない。
だがね、私の息子たちは、自分たちが何歳なのか知っているんだよ。しかも、嘘と本当の違いも分かっている』」(「こころのチキンスープ」より)。
さて聖書に「あなた自身を良いわざの模範として示し」と教えられています。
嘘のまかり通るこの時代にあって、正直な模範を歩めたら素晴らしいと思います。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201124「南」 

みことばの花 201124「南」 

「彼は北斗、オリオン、/プレアデスおよび南の密室を造られた。」(ヨブ記 9:9 口語訳)

昨日は「北」について私なりの瞑想をしてみました。
では反対方面の「南」はどうか。上記には、「南の密室」という語句が登場します。これを「南の星座」と訳す聖書もあります。
「密室」の原語は、「cheder」と読まれるヘブライ語。「密室」の他、「家、内、奥の間、へや、寝室」の意味もあるそうです。
私は「南の密室」とは、神様の「秘密の部屋」を連想します。これは、神のおられる「天の聖所」を指す言葉なのかも知れません。
いずれにしても、「北」とは異なり「南」は神様と深いつながりをあらわす方角。
他にも、「南風によって地が穏やかになる時、/あなたの着物が熱くなることを」(ヨブ37:17 口語訳)とか、
「神は天に東風を吹かせ、み力をもって南風を導かれた」(詩篇78:26 口語訳)という聖句があります。
南風には、愛の神の風を想像させます。私も神の「南風」に温められ、この「南風」のように、冷えた人の心を温められたらと心から願うのです。

磯部豊喜

みことばの花 201123「北」

みことばの花 201123「北」

「あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、」(イザヤ 14:13 口語訳)

冬というと「北」のイメージが浮かびます。
ところで物の本に、「北」という文字は、人が背中合わせに膝を曲げ手を前に伸ばして立っている姿が文字になったとありました(日本テレビ放送網KK発行)。
「背中」の背の中にも北が入っていますが、「背」は「背く」の背でもあります。
さて、聖書を読みますと「北」は悪魔(サタン)に結びつく言葉の色合いが強い。
上記聖句の「あなた」は「悪魔(サタン)」を指す言葉。彼は「北」が好きなようです。
ところで悪魔(サタン)は神(キリスト)と戦って、天を追放されました。言い換えれば、彼は「敗北」した。
戦って負けることを「敗北」と書きますが、「敗東」「敗西」「敗南」とは書かない。
どんなに彼が誇ろうとも、彼は神には勝てない。ちょうど北風が太陽の温かさに勝てないように。
したがって私は、北向きよりも、南向きに心を置きたい。
批判より支持、欠点より良い点を見、否定より応援の思いを育てたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 201122「葬式と結婚式」

みことばの花 201122「葬式と結婚式」

「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。
それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」(ローマ 6:4 口語訳)

今日私は、午前に葬式、午後に結婚式の司式をすることになりました。
葬式では「さあ、チーズ(笑顔で)」は禁句。結婚式では「お悔み申しあげます」とは言えない。果たして頭の切り替えが器用に出来るであろうか。
ところで、キリスト教には、葬式と結婚式が同時に進行するようなものがあります。それはバプテスマです。
罪の生活に死に(葬式)、新郎であるキリストを心に迎え新しいいのちに生きる(結婚式)のです。
葬式は悲しく、結婚式は喜ぶのが普通でありますが、葬式を迎えても、やがて命に復活し、天国に凱旋する「神の恵み」がわかれば、それは喜びとなるのです。
そういえば、今日は1122(いい夫婦)の日!
主の恵みが今日もありますように!

磯部豊喜

みことばの花 201121「神の恵み」

みことばの花 201121「神の恵み」

「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。」(Ⅰコリント 15:10 口語訳)

クリスチャン家庭でその子の名に多用される漢字は何かとふと思う時があります。
「愛」「信」「真」「希」…などが予想されますが、おそらく「恵」も上位にランクされると思います。
ヨハネの書簡では「愛」が目に止まりますが、パウロの書簡には「恵」という漢字が頻繁に目に止まります。
上記には「神の恵み」が3つも登場。パウロの実体験が、「神の恵み」に触れることだったのでしょう。
「恵み」とは、それを頂く資格がまったくないものに与えられるものです。何か仕事をしてもらえるものは報酬であり恵みではありません。
私が「今日を生かされている」という事実も「神の恵み」。
この恵みに感謝して生きたいと思います。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 201120「大きな報い」

みことばの花 201120「大きな報い」

「しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。」(ルカ 6:35 口語訳) 

大きな報いとは、私たちの目標ではなく結果のようです。
「夜と霧」という著作で有名な精神科医ヴィクトル・E・フランクルも、「しあわせはけっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果に過ぎないのです」と述べています。
「敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやりなさい」とイエス・キリストは教えられましたが、その結果として「報いは大きい」と言われます。
大きな報いを目標として生きるか、良き生き方の結果として報いがあると受け取るのかは自由ですが、後者のほうが素敵だと私は思うのです。

磯部豊喜
・・・・・・・
11/21(土)ライブ配信 URLです。
安息日学校 URL 11月21日(土)10:00 聖書の学び2020年第4期「教育とあがない」藤田 潔(教団名誉牧師)
https://youtu.be/Nn6C054xvNA
礼拝説教 URL 11月21日(土)11:00 説教題「宅配便を持つ教会」藤田 潔(教団名誉牧師)
https://youtu.be/bDndTFNIKqg

みことばの花 201119「子孫に引き継がれる賜物」

みことばの花 201119「子孫に引き継がれる賜物」

「・・・上なる天の賜物と露、/下に横たわる淵の賜物、日によって産する尊い賜物、/月によって生ずる尊い賜物、
いにしえの山々の産する賜物、/とこしえの丘の尊い賜物、地とそれに満ちる尊い賜物、・・・」(申命記 33:13~16 口語訳)

ここに7つの賜物が登場します。
実は、これは天の神を敬った結果、奴隷から古代エジプトの宰相へと導かれたヨセフの子孫であるヨセフ族の賜物を表現したモーセの祝福の言葉です。
先祖の功績は、後の子孫に受け継がれることを指しているのでしょうか。人の生き方は、彼の子々孫々に影響を及ぼす。
そう解釈しますと、自分の生き方を点検しなくては…と身が引き締まります。
確かに私の生き方は、子孫ばかりでなく、必ず誰かに何らかの影響を与えているに違いないと私は思うのです。
私の良し悪し共に…。

磯部豊喜

みことばの花 201118「困難の受け止め方」

みことばの花 201118「困難の受け止め方」

「自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。」(マルコ 4:17 口語訳)

人生の幸福について考えさせてくれる言葉を知りました。スイスの哲学者カール・ヒルティ(1833~1909年)の言葉です。
「人生の幸福は、困難に出合うことが少ないとか、まったくないということにあるのではなく、
むしろあらゆる困難と戦って輝かしい勝利をおさめることにある」(「眠られぬ夜のために」より)。これはすごく前向きな幸福感だと思います。
尼子氏の武将、山中鹿之助ではありませんが、「我に七難八苦を与えたまえ」と言い切れる人はそう多くはいないでしょう。
さて上記は、困難につぶされる人の姿を描いた言葉です。
置かれた困難を乗り越える、そのような筋書きに少しでも楽しめる者になれたらと私は願う。
そのためには心の根に主イエスが必要だと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花201117「まず自分」

みことばの花 201117「まず自分」

「エチオピヤびとは/その皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。
もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる。」(エレミヤ 13:23 口語訳)

「人は変わる」ことが実に難しい。まさに上記のエチオピア人の皮膚やひょうの斑点のようです。
ウエストミンスター寺院の地下室にある碑文が刻まれた英国国教会主教の墓があるという。
その碑文は、「私は若いころ、世界を変えることを夢見ていた、ですが世界が変わらない。
そこで年を重ねて思った。自分の国から始めよう。だが自分の国も変わらなかった。
老年期になり、自分の国がだめなら、最も近くにいる家族を変えることにした。ですがこれも、ままならなかった。
今、死の床についてわかった、変えなければならないのは、自分自身だったと。」いう内容。
人は自分を変えられるのか。神にはできないことはないという。
その神に自らをお委ねする。すると自分、家族、国、やがて世界が変わると言うのです。
本当かどうか。まず最も難しい自分を変えることから挑戦したい。

磯部豊喜

みことばの花 201116「木には望みがある」

みことばの花 201116「木には望みがある」

「木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、/その若枝は絶えることがない。」。(ヨブ 14:7 口語訳)

木の生命力はおそらく地球の生物の中で群を抜いていると思います。
数千年という風雪に耐えて生き抜く木は、その命の力を私たちに教えてくれます。
ところで次のような聖句があります。「わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである」(イザヤ65:22 口語訳)。
この聖句は、やがてきたる永世天国における人々の様子を描いたものです。私どもの現在の命ははかなくて終りがあります。
ですがきたるべき世界での命は、「木の命」のようになると神の御言葉は約束します。
生きる目的とは何か。「木には望みがある」という御言葉を提供される神を知ること、信じることだと私は受け止めます。
永遠の希望のために!

磯部豊喜