みことばの花 190430「平成の大晦日」

みことばの花190430「平成の大晦日」

「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。」(伝道の書 1:4)

ついに30年間慣れ親しんだ「平成時代」の夕暮れがやってきました。
今日はまさに「平成の大晦日」。
いま平成の30年間を振り返る報道で満ち溢れています。
私は「昭和」の生まれですが、昭和には悲惨な戦争が日本中を包み込みました。
私は戦後9年に生まれたので、戦争ドラマなどでしかその悲惨な戦争を体験していません。
私の「昭和時代」は、命を受け幼少期を送り、小中高大と学窓を進みそして社会人に。
聖書に触れ創造の神を知り、バプテスマを受けてクリスチャンにさせていただきました。
さらに牧師へと導かれ、名古屋、仙台でインターン。この時に家内と結婚。
正牧師になって東京の大岡山教会へ着任。
ここで一番目の娘も産まれた。第一子というのは何をやっても新鮮。妻の傍にいつもいる子であった。
私にとって「昭和」はまさに人生のホップ(飛び跳ねた)の時代。
そして狭山市にある入間川教会へ異動後に、「平成時代」が始まった。
最初の思い出は二女の誕生。目の大きな色白の子で、小さい頃はお父さん子であった。
そして静岡市~札幌市~八王子市~大岡山(二度目)~練馬区の関町~千葉市にある教会へと居所を移し、今年定年を迎えた。
「平成」は、ステップ(歩んだ)の時代。
「令和」は、「平成時代」に置き忘れてきたものを拾い集めるのか、さらに何かを積み上げる時代になるのかは、私の宿題。
平成時代に「みことばの花」を書き始めましたが、上記の聖句のように続けられたらと願っています。
「世は去り、世はきたる。
しかし『みことばの花(神の言葉)』は永遠に変わらない。」と、あえてこのように置き換えて読みたい。
さて「令和」を、後悔のないジャンプ(最後の飛躍)の時代にしたい。
今朝は、ながながと自分の事を書いてしまいました。
「平成の大晦日」なので許してください。
読者の皆様も「令和」の時代に備え、ご自分の「平成時代」を振り返ってみませんか。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190429「賢(かしこ)い歩き方(かた)」

みことばの花190429「賢(かしこ)い歩き方(かた)」

「そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、」(エペソ 5:15)

平成時代のカウントダウンが始まり、平成は残すところ今日と明日になりました。
30年もの間、慣れ親しんだ平成も別れるとなると惜しくなるものです。
しかし時の流れは間違いなく「令和」時代が到来します。
平成から令和へ。私どもの人生も、過去の時代を清算し、将来を見据えた歩き方をして行かなくてはなりませんね。
そのような時の大切な心構えが、上記の聖句の中にあります。
「賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き」。
賢い歩き方とは何か。
マタイによる福音書によれば、「岩(イエス)の上に(人生の)家を建てる」(マタイ7:24)ことだとあります。
そうすれば人生の嵐が襲ってきても、決して揺らぐことはないと教えられています。

磯部豊喜

みことばの花 190428「ふところの広さ」

みことばの花190428「ふところの広さ」

「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、」(エペソ 3:18) 

上記はキリストのお姿をあらわした言葉で、キリストのふところの広さを示しています。
そのふところの広さというと、リンカーン大統領のことを思います。
政敵スタントンがリンカーンのことを「あのバカ者」と2回も辛辣(しんらつ=表現や見方が手きびしいこと)に非難した時に、
それを聞いたリンカーンは「そうか、スタントンが2回も、そのように語ったのか。
それならば、私はその通りであるに違いない」と答えたと言います。
リンカーンが愛したのはイエス・キリストでした。
このリンカーンは心なき人に暗殺されてしまいますが、
スタントンは「歴史に残る偉大な人物が亡くなった」と涙を抑えきれなかったと言います。
あのリンカーン大統領のように、「ふところの広い」キリストをきょうも見上げて一日を始めたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 190427「家訓」

みことばの花190427「家訓」

「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」(マタイ 7:12)

先日のことですが、ある夢を見ました。
その夢の中で今でも心に鮮明に残っている言葉。それは「家訓」という言葉です。
これまでの人生を振り返ってみて、私は「家訓」なるものを考えたことも唱えたことはありません。
しかし今「家訓」という言葉が私の心に響きます。
ところで上記の聖句は、私どもの教会の教育機関(三育教育)が掲げている「校訓」の一節です。
この「校訓」、素敵だと思いませんか。
さて、我が家の子供たちはすでに大人になって巣立っていきましたが、
改めて「家訓」を考えるとするとどういう言葉がよいのでしょう。
今日は第七日安息日、創造の主に尋ねてみたい。きっと何かヒントを与えてくださるに違いない。
あなたもご自身の「家訓」を考えてみてはいかがでしょうか。

磯部豊喜

みことばの花 190426「借りの作り愛」

みことばの花190426「借りの作り愛」

「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。」(ローマ 13:8)

借りを作るのはあまり良くないことでしょう。
しかし愛は別のようです。愛し愛されることには借りがあっても良いという。
リビングバイブルでは、この聖句を「借りがあれば、全部返しなさい。
ただし、他の人を愛するという『借り』だけは別です。
その『借り』だけは、いつまでも返し続けなさい」と書いています。
愛し愛されるという「借りの作り愛(合い)」。
なるほど、いい生き方だと思いませんか。

磯部豊喜

みことばの花 190425「信仰の導き手」

みことばの花190425「信仰の導き手」

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(ヘブル 12:2)

女子マラソンのメダリストを育てた名指導者、小出義雄監督がお亡くなりになられました。
小出監督という人の指導法は、選手を褒めて伸ばすものだったそうです。

その小出監督の名言。
「一つのことに打ち込んでこそいい仕事ができる。」
「逆風は君を潰すためにではなく飛躍させるために吹く。」
「焦らなくてもいい大きな山はゆっくり登れ。」
「私の教え方は夢と希望を持たせることです。」

…とまあ、すべて前向き。素晴らしい人であったに違いない。
実は私の信じるキリスト、まさに夢と希望を弟子たちに注がれたお方でした。
主を裏切ったペテロに対しては、「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。
それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。
ペテロはこの言葉を思い出し、立ち直ることができたに違いない。
キリストは信仰の導き手だと上記にあります。
この方は、さらに私たちにも「あなたは尊い」とも語ってくださいます。

磯部豊喜

みことばの花 190424「『見える』と言い張るところに…」

みことばの花190424「『見える』と言い張るところに…」

「イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネ 9:41

「わたしには見えている」という人も危ない。
キリストは、「あなたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と言われました。
この言葉は、こういう言い回しだと分かりやすい。
「しかし、何もかもわかっているとあくまで言い張るので罪はそのまま残るのです」と(リビングバイブル参照)。
「自分には見えている」「自分には分かっている」…こうして自分の賢さを披歴(ひれき)する。
人間はすべてを見透かすことは出来ません。
これは神様の領域でしょう。
神の領域を自分のものにしてしまうので、罪があると主は言われたのかも知れません。
常に謙虚でありたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190423「自分が見えない人」

みことばの花190423「自分が見えない人」

「パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、
『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、
また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。」(ルカ 18:11)

自分の本当の姿が見えていない人の事例がここにあります。
上記の祈りをささげたパリサイ人のような人です。
彼は自分のことを良く知っているかのように語っています。
ですが自分の中に潜んでいるものに気づいていません。
自分は品行方正だと思っています。
こういう人は、やはり優越感を抱く。
彼のように優越感を抱き他者を見下げる人は、実は自分が見えない人なのでしょう。
こういう人にならないように注意したいものです。

磯部豊喜