みことばの花 180828「今もなお語る生き方」

みことばの花180828「今もなお語る生き方」

「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」(ヘブル 11:4)

その人はもはやいない、しかし今も生きているというものがあります。その一つは、漫画。昨日、「ちびまるこ」で有名な漫画家の「さくらももこ」(ペンネーム)さんが乳がんのために53歳の人生を終えられたと報道されていました。「ちびまるこ」は、あの長谷川町子さんの「さざえさん」のように、作家がいなくなっても、ストーリーは続くのかも知れません。それにしても漫画のキャラクターの特徴は、年を取らない。子供はいつも子供のまま。年を取り、やがて老化して、最後は死に向かう人間にとって漫画は理想の世界なのかも知れません。ですが漫画の世界ではなくたとえ死んでも、ずっと語り継がれるものもあります。それはその人の生き方。アベルという人は、人類最初の夫婦、アダムとエバの生んだ息子の一人でした。ところが彼は、兄のために絶命。しかし彼の真実な信仰姿勢は現代の21世紀にまで、聖書に記録されて語り継がれています。死んでもなお語る…そういう生き方が出来れば幸いです。

磯部豊喜

みことばの花 180827「マナ3」

みことばの花 180827「マナ3」

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。」(黙示録 2:17)

一昨日、昨日と「天から下ってきたマナ」のことを考えました。最初の「マナ」は食物のない荒野で命をつなぐために神はその愛するイスラエル民族に与えたパンでした。それは後に、人類に与えられる神の御子であり救い主なるイエス・キリストを象徴していました。イエス・キリストは全人類の救い主として天から下りてきました。その結果、全人類を救う道が開かれました。ただこの事実は、全人類が無条件で救われて天国とか永遠の命に入るというものではありません。人は勝利を得なくてはならないと聖書に書かれています。勝利とは何でしょう。救い主を与えてくださった愛の神様を心に受け止めるか、受け止めないか。神様が与えてくださった救い主を信じて歩むか歩まないかです。私たちの魂の敵(サタン)は、救い主に目を向けさせまいとしています。悲しむべきことに多くの人々は、このために救い主に目を向けることが出来なくなっています。しかし勝利を得る者は、「隠されているマナ(キリスト)」を受けることが出来ます。キリストこそ我が命です。日々キリストを求めて歩みたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 180826「マナ2」

みことばの花180826「マナ2」

「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」(ヨハネ 6:51)

上記のみことばの直前の言葉はこうです。「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない」(ヨハネ6:49,50)。昨日、イスラエル民族の荒野生活において天から降ってきたマナのことを紹介しました。実は、この天から降ってきたマナを指して、キリストは「わたしは天から下ってきて生きたパンである」と言われました。そして「それを食べる者は、いつまでも生きる」とも言われます。「いつまでも生きる」とは「永遠の命が与えられる」ということです。昔、秦の始皇帝は「不老長寿の薬」を求めて、多額の資金を使ったといいます。ただ彼の願いはかないませんでした。ですがここに真の「不老長寿の薬」があります。それはイエス・キリストです。イエス様を信仰によって食べる(受け止める)人は、いつもでも生きることができます。今日も主の祝福がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180825「マナ1」

みことばの花180825「マナ1」

「イスラエルの家はその物の名をマナと呼んだ。それはコエンドロの実のようで白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。」(出 16:31)

モーセに授けられた十戒は、出エジプト20章に記されています。その十戒の第4条は「第七日安息日」の教えです。第七日安息日は十戒の時に与えられたと考える人がいますが、十戒が与えられる前から、第七日安息日の教えは、出エジプト記16章にもありました。神様は6日間、上記のみことばにあるようにマナというパンを荒野生活するイスラエル民族のために天から降らせました。ところが7日目だけは、降らせなかった。マナと呼ばれたパンが降る日は現在の日~金で、土曜日には降って来なかった。安息日の前日(金曜日)には2倍のマナを集めるように告げました。日~木までのマナは翌日には腐りました。しかし金曜日に降ったマナだけは、腐ることなく土曜日にも食することが出来たのです。こうしてイスラエル民族が体験的に第七日安息日には仕事をしないで、神様と交わる日を過ごすようにされたのです。金曜日の日没は、安息日の始まり。第七日はキリストとの交わりを楽しむスペシャルデーです。ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 180824「大いなる苦しみ」

みことばの花180824「大いなる苦しみ」

「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後に捨てられたからである。」(イザヤ 38:17)

メーン・ド・ビランというフランスの哲学者の言葉です。「自分が存在することを感じるのは、ほとんど健康でない人だ…。健康は、私どもを私どもの外に連れて行き、病気は、私どもを私どもの内に連れ戻す」。人は病むことによって、命に敏感になる、人生に深みが増すということでしょうか。徒然草の著者、吉田兼好は、「病なく身強き人」を友人にしたくないと言っています。確かに苦しみに出会わない人よりは、それに出会う人のほうが人の心身の痛みが分かる気がします。聖書も「わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった」と書いています。苦しみや挫折は、人をして味のある人にしてくれるような気がします。とは言っても、「苦しみよ来たれ~」とまで言える人になれませんが、不意に苦しみがやって来た時、それも益であること(私を幸福に導くものであること)を覚えたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 180823「つまびらか」

みことばの花180823「つまびらか」

「あなたがたは主の書をつまびらかに/たずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。…」(イザヤ 34:16)

「ユダヤ人には文盲(もんもう)はいない」といいます。「文盲」とは、無学で読み書きができないことですが、ユダヤ人を文盲から守ってきたのは、聖書を読む習慣があるからだという。ユダヤの家庭では子供が物心がつくと聖書を開き、そこへ蜜を落とし、そこに子供に口づけさせます。これはこの書物が甘いということを教えるための儀式。ユダヤ人はこうして子供の頃より聖書に親しむために文盲がいなかったというのです。さて、聖書の預言者は「あなたは主の書(聖書)をつまびらかに/たずねて、これを読め」と語っています。ただ読むのではない。「つまびらかに…これを読め」という。「つまびらか」とは「くわしく」「事こまやかに」という意味です。聖書にはそのように読む価値があります。これは人生の単なる豊かな生き方の処方箋(しょほうせん)があるばかりでなく、永遠の命への鍵が書かれているからです。どうぞ日々、聖書を「つまびらか」に学んでみませんか。今日も主の愛がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180822「昼の間に」

みことばの花180822「昼の間に」

「わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。」(ヨハネ 9:4)

この聖句についてこんなコメントを見ました。「ここには二つのポイントがあります。一つ目は、神が私たちに与えてくださった仕事があるということです。キリストご自身も自分の計画ではなく、父なる神を求め、神が与えてくださった計画を毎日成し遂げていったことが聖書に記されています。そして二つ目は、その神が与えてくださった仕事をするための時間に制限があるということです。聖書の預言に書かれている、キリストが再び来られる再臨の前兆が世界各地で見られ、時代が急速に進んでいることに限らず、私たちに与えられている命にも限りがあるのです。誰にも明日のことはわかりません。事故や災害などで突然命が奪われるかも知れないのです。今日できなかったことが明日できるとは限らないのです」(サインズ2018.09号p17)。とても考えさせられるメッセージです。「昼の間に」すべきことをする。今日一日をムダに過ごしやすいわたしですが身が引き締まる思いがしました。主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180821「記念」

みことばの花180821「記念」

「主はそのくすしきみわざを記念させられた。主は恵みふかく、あわれみに満ちていられる。」(詩篇 111:4)

今甲子園球場がにぎわっています。いよいよ今日は決勝戦だそうです。決勝まで残った二校は、金足農業高校(秋田代表)と大阪桐蔭高校(大阪代表)。今回の高校野球は100回記念。そしてこの両校、金足農業高校が勝てば東北初の優勝となり、大阪桐蔭高校が勝てば春夏連覇が2回目となる初の記録となると聞いています。100回記念に相応しい、決勝戦になりました。どちらが勝つのか…、今日中に分かります。さて聖書の中にも記念とされる事柄が多く記録されています。聖書の記念を調べていて、素敵なみことばに出会いました。上句の聖句です、「主はそのくししきみわざを記念させられた」。主のくすしきわざとは何でしょう。私にとってそれはキリストの十字架の死であり、復活です。この神の記念は、永遠の世界への入り口となります。この記念を心に刻んで、希望をもって歩みたいと思います。今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180820「規則」

みことばの花180820「規則」

「それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」(イザヤ 28:10)

わたしの敬愛するS氏(元小学校の校長先生)のお書きになられているエッセーを読みました。そこには「無事故無違反の証:あなたは昭和47年5月15日から平成23年12月26日現在までの39年間、無事故無違反であることを証明します(自動車安全運転センター)」という証明書を授与されたとのことが書かれていました。さらに「45年間無事故無違反で車の運転をして来れた」との添え言葉もありました。ゴールド免許証を失って久しく、ここ数年青色免許証に馴染む私とは大きな違いです。いったいどこが違うのか、注意深さが違うのかも知れません。良い運転技術とはスリル満点の運転をすることではなく、安全運転にまさるものはないと聞きます。安全運転とは交通規則を守ること。標識をしっかりと見て、運転しなければいけない…と切符を切られるたびに反省します。天国へのドライブも同様かも知れない。神様のみ言葉を聞いて素直に守る、天国への安全運転をしたいものです。

磯部豊喜