みことばの花 200929「偶然」

みことばの花 200929「偶然」

「そして見ていて、それが自分の領地へ行く道を、ベテシメシへ上るならば、この大いなる災を、われわれに下したのは彼である。
しかし、そうしない時は、われわれを撃ったのは彼の手ではなく、その事の偶然であったことを知るであろう。」(サムエル上 6:9 口語訳)

「有神論」と「無神論」。聖書を信じる「有神論者」は、信じる対象者を神と呼び、すべてのものはこのお方によって造られたと考えます。
一方、「無神論者」は「神はいない」と信じ、「有神論者」は「神はいる」と信じる。ここに両者の共通点があります。
それはいずれも「信じる」という心があるということです。
ところで「無神論者」の一つの特徴は、「偶然」を多用します。聖書には、この「偶然」という言葉は、口語訳聖書には一か所しかありません。
それが上記の御言葉です。Miqreh(ミクレー)というヘブライ語は「運命、偶然、何か起こる、臨む事、はからずも」と訳せる言葉。
果たして私は偶然の産物なのでしょうか。それとも神に造られた産物なのでしょうか。
信仰は選択。さて、どちらの選択が私にとって幸せなのでしょうか。

磯部豊喜

みことばの花 200928「安かれ」

みことばの花 200928「安かれ」

「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。」(ヨハネ 20:19 口語訳)

ヨハネ20章19~26節の中に、立て続けにキリストがお語りになられた一つの言葉。それは「安かれ」(19、21、26節 口語訳)。
訳の違う聖書では「平安があるように」「平和があるように」とも訳されています。
これは「心が穏やかでいられる」ようにという励ましに満ちた言葉です。
危機が迫る時、自分の願いが適えられない時など、人の心は穏やかでなくなります。
ですが、そのような人の心の只中にキリストのこの御声が届くと、人の心に奇跡が起きます。
弟子たちの心が穏やかになるまで主が連発された「安かれ」は、今も「私の心が穏やかでない」時、「安かれ」を私の心に語り続ける必要を、主が願っておられるような気がします。
自分の前に主を描き、自分の心に向けて「安かれ」と語ってみませんか。

磯部豊喜

みことばの花 200927「天を見つめる」

みことばの花 200927「天を見つめる」

「しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。」(使徒 7:55 口語訳)

上記は数日前にも紹介した聖句です。ある方からこんなメールを頂きました。「軽井沢はお金持ちが作った保養所だから、おしゃれな分お金がかかる。
手つかずの自然があるところは蛇やサルや熊が出るから危険です」と。
私も自然界が好きなのですが、「熊に注意」などという看板にふれると緊張が走ります。
南房総に車を走らせると、自然界のサルが出没します。一方、人間界では凶暴な人に出会う可能性があります。
車を運転していても、暴走車がいます。この世界、今はどこにも安全地帯はない。
ですが、どんなに危険な所に身を置いても、天を見上げれば平和な主を見ることが出来ます。
心の目を天に向けたい。そこには、地上の何物にもとらわれない「我と汝」の世界があります。
今週も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200926「命のパン」

みことばの花 200926「命のパン」
「わたしは命のパンである。」(ヨハネ 6:48 口語訳)

キリストがキリストご自身を表現する言葉が聖書にはいくつか登場します。
「わたしは世の光である」(ヨハネ8:1 2口語訳)とか、「わたしは門である」(ヨハネ10:9 口語訳)、「わたしはよい羊飼である」(ヨハネ10:11 口語訳)、「わたしはまことのぶどうの木…である」(ヨハネ15:1 口語訳)などもそれです。
上記の聖句は「わたしは命のパンである」。この聖句は「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。」(ヨハネ6:49,50 口語訳)と続きます。
人が口から食べるパンは地上の命を助けてくれますが、人を不老不死の命に導くことは出来ません。
ですがキリストという「天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことない」という。
これは、人生のセカンドステージの命、キリストを信じる人に与えらる永遠の命を含む言葉です。
この26日(土)、教会では洗足聖餐式というものを行います。
その意味はとても大切ですから、教会に来れない方には、ライブ配信などでその意味を知っていただきたく願っています。
ハッピサバス(幸せな安息日を)!

磯部豊喜
・・・・・・・
9/26(土)ライブ配信 URLです。過去のメッセージは、http://sda-chiba.org/
安息日学校(聖書の学び)URL 9月26日(土)10:00  第Ⅲ期13課「信仰による一歩」 磯部豊喜
https://youtu.be/DKMTPOkEuyQ
礼拝説教 URL 9月26(土)11:00 説教題「十字架の叫び」(イエスが十字架の上で叫ばれた「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」の真相は?)
https://youtu.be/5KNicAxdKDU

みことばの花 200925「生と死」

みことばの花 200925「生と死」

「わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。」(詩篇 23:6 口語訳)

人生には二つの地点があります。一つは誕生、そして二つ目は臨終。
この間を普通は人生と呼びますが、私の愛読書の月刊誌サインズ(福音社)の冒頭「今月の言葉」というページの10月号の中に「生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。
そして、おそらくそれ以上に不思議に思われるであろうが、生涯をかけて学ぶべきことは死ぬことである。」(セネカ/ローマの哲学者)という言葉だとか「死は人生の終末ではない。生涯の完成である。」(マルティン・ルター/宗教学者)と記されています。
実は、私はやがて訪れるであろう死を人生の通過点と信じています。
死を通過点と受け止めると、今与えられている人生は、良いことも悪しきことも次の人生のための学び。
であれば「生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみが伴う」との言葉を私も語れる気がします。
磯部豊喜

みことばの花 200924「悪には善を」

みことばの花 200924「悪には善を」

「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ 12:21 口語訳)

悪の役割は、人の心を動揺させて罪を犯させること。怒りをもって怒りを引き出そうとします。
時に悪口を浴びせかけ、同様の悪口を引き出そうとする。こうして互いの感情はエスカレートし、やがて収集が出来なくなります。
これが国家間においては戦争となります。プライドとプライドのぶつかり合いは、血で血を洗うことになりかねません。
聖なる御言葉は、「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」と教えています。
昔、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は、戦い続け決着がつきませんでした。
しかしその仇敵に上杉謙信が、海のない甲斐の国武田信玄に塩を送ったという話は有名です。
怒る者には、穏やかに。悪口を浴びせる者には、親切な対応が必要です。善を持って悪に勝つ。そのためには主の導きが必要です。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200923「思いやり」

みことばの花 200923「思いやり」

「獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。
また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。」(ヘブル 13:3 口語訳) 

新型コロナのクラスターが発生した小学校の校長先生が始業式で二つの文字を掲げました。
一つは「不安」、今一つは「思いやり」。
感染をまるで悪いことをしたかのように責めたり、悪口を言う人がいることへの「不安」と、不安な気持ちでいっぱいの人に、温かい言葉をかけられる人になってほしいとの願いを込めて「思いやり」です。
さて上記も「思いやり」を訴える御言葉です。「(迫害を受けて)獄につながれている人たち」に対する、勧めの言葉です。
他人の悲しみを自分の身に置き換える心の作業は常に大切です。
「明日は我が身」という言葉があります。たまたま今は守られている、しかし明日どうなるかは分かりません。
いかなるときにも「思いやり」の心を常に持ちたいと思います。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200922「剣を鞘(さや)に」

みことばの花 200922「剣を鞘(さや)に」

「すると、イエスはペテロに言われた、『剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか』。」(ヨハネ 18:11 口語訳) 

キリストが敵に渡されて捕まる時に、一度は敵に歯向かった人のことを書いておきたい。それはペテロという弟子。
キリストを守ろうとして彼は、護身のために持っていた剣を抜き、敵の一人に切りかかったと聖書にあります。
その時、キリストが言われた言葉が上記の言葉。
武士道によれば剣は本来自分を守るためのもの。
幕末の立役者、勝海舟は江戸城の無血開城を果たした人ですが、聖書の影響を受けた人物。剣を抜かぬように剣と鞘をひもで縛っていた。
今日の剣、それは口の剣かも知れません。口の剣は他者を責めるためにではなく、護身のためのみに使いたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 200921「孤立」

みことばの花 200921「孤立」

「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」(マルコ14:50 口語訳)

今日も昨日と同じ聖句を瞑想したいと思います。
昨日は主を見捨てて逃げ去ったという弟子たちの行動を紹介しました。
今日は視点を変えて、キリストの側から見ます。これは愛する弟子たちから見捨てられた状態です。
その生涯において、キリストは幾度となく人々に見捨てられました。それをすでに予告さえしておられます。
「見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。
いや、すでにきている。…」(ヨハネ16:32 口語訳)。
傍にいつもいる弟子たちからも見捨てられる日が来ることを知っておられた。これを孤立といいます。
ですがキリストは「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。…」(ヨハネ14:18 口語訳)と言われます。
自分は見捨てられても、彼は他を見捨てない。
このキリストの愛を今日も見つめて歩みたい。

磯部豊喜

みことばの花 200920「大衆心理」 

みことばの花 200920「大衆心理」 

「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」(マルコ14:50 口語訳)

新型コロナの登場で、人ごみの中ではマスク着用が常識となりました。
ところでこのマスクの着用を広める方法は、国によって違うとのことです。
米国では「マスクをつける人は英雄だ!」というと国民はマスクをつけると言う。
ところがドイツでは、「マスクをつけるのはルールです!」と言えばマスク着用が広がる。
イタリアの場合は「マスクをつけると異性にモテルよ!」というと人々はマスク着用に関心を持つという。
では我が国日本ではどういう発表をすれば国民はマイクを着用するのか。
次の言葉で十分らしい。「マスクはみんなが付けているよ!」大衆心理に弱いのが日本人。
「赤信号みんなで渡れば怖くはない」が日本人的というわけです。
さて、ではイスラエルは?上記は主イエスが敵に捕らわれた場面です。
この場面では「皆イエスを見捨てて逃げ去った」とあります。「みんなで逃げれば怖くない?」。
果たして私がそこにいたならば、どうするでしょうか?

磯部豊喜