みことばの花 180929「関係を深める」

みことばの花180929「関係を深める」

「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(Ⅱコリント 5:21)

昨日、わたしは「この罪から私たちを解放するためにイエス・キリストが来られて十字架にかかって死んでくださったという。これを『よき訪れ』と呼びます」と書きました。命の主である神様から離れている以上、人は永遠に滅びるしかありません。ちょうど切花のように、根元から切られている姿が罪人の姿です。根につながっていない限り、そこには本当の命(永遠の命)がありません。切花が数日しか咲くことができないように、神様と言う根元から切り離された人間もその命は80年前後です。キリストの十字架の死は、神との断絶という罪を根本的に解消するためのものでした。私の罪が十字架の上でキリストの上に置かれた。神とつながっていたキリストが、わたしの変わりに罪そのものとなってくださった。キリスト者はこのキリストの愛を信じ、神様との関係を深めようとします。今日は第七日安息日です。神様との関係を深める尊い日。神様と関係を深める生き方が、キリストを信じる人の心に芽生えてきます。今日もさらなるキリストの愛を知ることができますように。

磯部豊喜

みことばの花 180928「私がなぜ罪人?」

みことばの花180928「私がなぜ罪人?」

「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」(ローマ 3:23)

教会へ行くようになると必ず聞かされる言葉があります。それは「私たちは罪人です」という言葉。これを嫌う人がいます。「教会へ来て気持ち良く帰りたいのに『罪人、罪人!』となぜ呼ばれなければならないのか」と感じる人もいます。なぜこのように感じてしまうのかというと、それは罪というものを道徳的なものに置き換えて受けとめているからです。確かに罪は不義と同列であり、道徳的な視点も無視は出来ません。しかし罪の本質は、不道徳ではない。「すべての人は罪を犯したため」とありますが、すべての人が罪と結びついています。その証拠は、すべての人が「死ぬ」という現実です。この罪の本質は何でしょうか。それは命の与え主である創造者なる神様から離れていることです。それゆえに生まれながらに真の命(永遠の命)を持っている人はいません。聖書は、この罪から私たちを解放するためにイエス・キリストが来られて十字架にかかって死んでくださったという。これを「よき訪れ」と呼びます。

磯部豊喜

みことばの花 180927「定まる心」

みことばの花180927「定まる心」

「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ。」(詩篇 108:1)

すでに人生の眠りに就(つ)かれた私の尊敬するK牧師を思い起こす聖句です。K牧師がお付き合いしておられた女性に求婚しました。「しばらく祈らせてください」との返答。不安と期待の入り混じった思いで本当の返事を待っていました。しばらくして一通のお手紙が届きました。そこに記されていたのは上記の聖句。K牧師は、この聖句をもってこの女性の気持ちを知り、喜びと感謝を主に捧げたとのこと。聖句で、大切な気持ちを伝えるってロマンチックですね。ところで私たちの人生、幾度となく決定しなくてはならない瀬戸際に立たされることがあります。右を選ぶか左を選ぶか。右も左も選びたくないこともあり、どちらも一緒に選びたくなる時もあります。このような時、どうすればよいのでしょう。それは必要を具体的に神様に祈ること。そして、心に平安が寄せてくるのを選ぶ。たとえ苦しい選びであっても正しい選びには平安があるでしょう。そうすると上記のように賛美が生まれて来ます。主からの平安が今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180926「キリストの怒り(2)」

みことばの花180926「キリストの怒り(2)」

「主は恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊かです。」(詩篇 145:8)

「キリストの怒り」についていまひとつの考察をさせていただきます。昨日、キリストの怒りは「聖なる怒り」と書かせて頂きましたが、私たちが普通に怒るものとは、まったく異なっていたと思います。キリストのご品性は、上記の聖句のように「怒ることおそく」とあるように本来「怒ることの出来ない」ご性質。そのお方が、「怒った」。では何を怒ったのでしょう。突き詰めてみますと、それは人の心に支配しているもの、それはつまり「罪」です。神と人を引き裂く「罪」。この罪の虜(とりこ)になっている罪人を罪から引き離したいという思いが「怒り」となってあらわされました。「怒り」をあらわされたキリストの心は、涙に満ちていた。これが「キリストの怒り」だと思います。罪を憎んで罪人を憎まず。こういう品性をキリストはお持ちでした。彼はどこまでも「いつくしみ豊か」なお方なのです。今日も主の愛を見つめて歩みましょう。

磯部豊喜

みことばの花 180925「キリストの怒り」

みことばの花180925「キリストの怒り」

「イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。」(マルコ 3:5)

先日、ある集会で「イエス様は、いつも穏やかで素敵な方でした」ということをお話しました。するとクリスチャンではないけれども聖書をある程度読んでおられる方が、私のところへ来て「『キリストが神殿で怒った』ということが書いてあったと思いますが…あれはどうなのですか?」と真面目な質問をしてくださいました。確かに「聖書にはキリストがまったく怒らなかった」とは書かれていないので、その通りです。そこで「キリストの怒り」とは、どういう種類の怒りであったかをお話しました。キリストは自分のためにカッとなったりはなさらなかった。人の貪欲のために神殿が汚されたり、上記の聖句のように、人々が隣人への愛からまったく離れ、愛のない言動をする時に怒ることがあったようです。私はキリストのあらわされた怒りは、「聖なる怒り」だと呼んでいます。おそらく「怒り」には二種類あるのだと思います。価値のない怒りと、価値のある怒り。義のためにここぞという時に「怒る」、それもありなのかな…と考えます。でもキリストのように人生の基本は優しく穏やかでいたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 180924「曲線」

みことばの花180924「曲線」

「まっすぐに歩む者の歩みは安全である、しかし、その道を曲げる者は災にあう。」(箴言 10:9)

これも新聞の記載内容ですが「探査ロボ、リュウグウ着地」という見出し。「宇宙航空研究開発機構(JAXA)は22日、探査機『はやぶさ2』から分離した小型探索ロボット2台が、小惑星『リュウグウ』に着陸したと発表した。小惑星の上を移動できる探査機が着陸に成功したのは、世界で初めて」とありました。「世界で初めて」という言葉をみると、日本の宇宙開発技術もすごいな~と誇らしくなるのは私も日本人。ところで宇宙にあるものを観察しますと、すべて曲線だらけ。しかし人間の世界には、直線が多いと思います。「神は曲線を造り、人は直線を造った」と言った人がいましたが、なるほどと思います。さて物体ではなく、精神世界において「直線」すなわち「まっすぐ」はあこがれる生き方を示す。み言葉には上記のように「まっすぐに歩む者の歩みは安全である」とあります。右にも左にも誘惑に負けない「まっすぐ」な生き方は神様に評価されます。できる限り「まっすぐ」に歩む者に近づきたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 180923「月の役割」

みことばの花180923「月の役割」

「あなたは月を造って季節を定められた。日はその入る時を知っている。」(詩篇 104:19)

今朝の朝日新聞の「天声人語」の欄に、「月」に関することが書かれていました。「近年、月に注ぐ主要国の視線が熱い」とありました。その理由は、アフリカで見つかった月の隕石を分析したところ、水なしでは生成されないモガナイトという鉱物を見つけたということで、月には「まとまった量の氷」が月にあるのではと注目されているゆえです。ところで私たち(日本人)は、月を眺めて「モチをつくウサギ」を浮かべますが、海外では「大きなカニ」「本を読むおばあさん」を想像するとも書かれていました。明日は旧暦8月15日で、中秋の名月が上るという。実は昨晩、私は夜空を照らす月を眺めて心が引き寄せられたばかりでしたので、この記事に心が留まりました。聖書では、月の役割の第一は、「季節」のためだと書かれています。月の役割が広がることは興味深いことですが、月の創造者は神様だということも覚えておきたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 180922「第七日」

みことばの花180922「第七日」

「神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。」(創世記 2:2)

聖書の中で「第七日」という単語が最初に出てくる箇所です。聖書によれば、わずか6日間で私たち人間を含む世界の被造物が神様によって創造されました。聖書には「天を創造された主、すなわち神であって/また地をも造り成し、これを堅くし、いたずらにこれを創造されず、これを人のすみかに造られた主…」(イザヤ 45:18)とあります。天地創造も人間の創造も神様の意思によってなされました。「第七日」という時の単位も神様の意思によると言えます。これは自然界の周期には見あたりません。ところが週制度は非常に古くから用いられていました。人類の発祥地と言われるユーフラテス川流域のメソポタミヤ地域にすでに週制度が存在していました。そして今なお現存するのはユダヤ民族。彼らも「第七日」を「サバス」と呼んで、週制度の中に身を置いて生活しています。彼らの生活の原点は聖書です。「第七日」は天地創造の記念日。ですから私もこの日を「ハッピー、サバス!」と呼びたいのです。

磯部豊喜