みことばの花 190917「満ちあふれる恵み」

みことばの花 190917「満ちあふれる恵み」

「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。
しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」(ローマ5:20 口語訳)

ここでいう律法というのは十戒を指していると思われます。
この十戒というのは、私の心の中の姿を照らしてくれる心のレントゲンとか内視鏡のようなものです。
この十戒という心の鏡の前に立つと自分の心の汚れが見事に見えてきます。罪深さが見えてきます。
自分には天国とか永遠の命とは途方もない遠いところに見えます。
ですが、この心の汚れをまったく清めてくださる神の恵みがあります。
恵みとは自分に無いものが、無償で一方的に与えられるものです。
働きはなくてももらえるものが神の恵みです。
この恵みはイエス・キリストを通して与えられる永遠の命なのです。
私のものではない永遠の命が、キリストへの信仰によって私のものとして与えられます。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190916「御子イエスの血」

みことばの花 190916「御子イエスの血」

「しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」(Ⅰヨハネ1:7 口語訳) 
 
神の御子イエス・キリストの血は、他の何物よりも勝る血です。
聖書によれば彼は天地万物の創造者、神の独り子、罪なき完全なお方です。
このようなお方が、人間になって死なれた。
その最大の理由は、罪を犯してその罪のために死(永遠の滅び)に向かっている私たち一人一人の罪をきよめ、新しい命(永遠の命)を注ぎ込むためです。
「罪の支払う報酬は死である。
しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ6:23 口語訳)。
罪は全人類を死に導きました。
御子イエスの血は、罪びとを永遠の命へと導くのです。
今日も主の愛が私の心に満ちますように。

磯部豊喜

みことばの花 190915「キリストの血」

みことばの花 190915「キリストの血」

「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」(ヘブル 9:14 口語訳) 

十字架の上で「キリストの血」が流されました。
この出来事こそキリスト教の神髄です。
なぜ「キリストの血」が重要なのでしょう。
善人や聖天使の血ではダメなのでしょうか。
罪の本質は神に対するものです。
神の禁止事項を破る行為が罪(不法)でしたから、まったく罪を犯したことのないお方にしか罪を清める力はありません。
神は聖なる律法の制定者。
この聖なる律法の制定者ご自身が、人となって来られ十字架で死なれた。
ここに驚くべき神の愛があると言えます。

磯部豊喜

みことばの花 190914「神の小羊」

みことばの花190914「神の小羊」

「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」(ヨハネ 1:29 口語訳)

「罪のゆるし」と「血が流される」ことは深く結び付いています。
血は命そのものです。
旧約聖書には「人の罪をゆるす」ために動物(特に小羊)を屠って、血を流すと言う儀式がありました。
このような儀式は何を意味していたのでしょう。
これを明らかにするのが上記のみ言葉です。
ヨハネは、神の御子イエスを見つめて「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。
旧約聖書の「動物の犠牲の血」が象徴していたのは、実は十字架に架けられ血を流して命を投げ捨てられる神の御子イエス・キリストであるということをヨハネは知っていました。
キリストが「世の罪を取り除く小羊」となってこの世に来られ、十字架の上で「血を流して」死なれる…
そこに全人類の「罪のゆるし」があると彼は受け止めていたのです。
今日は第七日安息日、十字架に架かられた救い主を礼拝したいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 190913「罪の許し」

みことばの花 190913「罪の許し」

「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。
血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」(ヘブル 9:22 口語訳) 

日本古来の宗教とされる神道(しんとう)は、しばしば「水の宗教」と言われます。
「罪やけがれをなくすために、川に行って水で体を洗い清める禊(みそぎ)」というものがあります。
実は聖書にも洗礼(バプテスマ)という、罪の許しを得るための悔い改めの儀式があります(使徒2:38 口語訳)。
ですが聖書は、それと共に、いえそれ以上に「水」よりも「血」を重視します。
「血を流す」ことによって「罪が許される」という。
血は命を象徴しており、キリスト登場前には人の罪をゆるすものとして動物の血(命)が流されて来ました。
この動物の血(命)は何を意味していたのでしょう。
明日に続きます。

磯部豊喜

みことばの花 190912「贖罪」

みことばの花 190912「贖罪」

「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。」(ヘブル 2:17 口語訳)

神の御子イエス・キリストが人間になる意義は上記のみ言葉にみられます。
「民の罪をあがなうために」。「あながう」とは「買い取る」ということ。
人の罪を買い取って罪をなくすことを指しています。
その「買い取る方法」が「十字架にかかって死ぬ」ことでした。
神のままでは死ねないので、イエス・キリストは死ぬべき人間になられたのです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190911「閉ざされた御国」

みことばの花 190911「閉ざされた御国」

「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。
彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。」(ヨハネ 8:44 口語訳)

悪魔の目的は、人類を滅ぼすこと。
一昨日の台風のように人の帰る道を遮断すること。
人類にとって帰る家は「天国(神の国)」です。
ところが「天国」を過小評価させ、「永遠の命」なんぞはたわごとと思わせる。
人の一生はただ一度。それでは落ち着かないので、死者について偽物の慰めを教えます。
「星になって守っているよ」と。何の根拠もないのです。聖書は「罪を犯す魂は必ず死ぬ」と教えます。
罪を知り、罪から救う救い主を教えます。
キリストこそ「閉ざされた御国」を開くために来られた唯一の救世主、神の御子です。

磯部豊喜

みことばの花 190910「つながった道」

みことばの花 190910「つながった道」

「イエスは彼に言われた、
『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。』」
(ヨハネ 14:6) 

昨日、台風のためにJRは難しいと考えた私は高速バス乗り場へ。
ところが「今日の高速バスは運休です」。
総武線へ移動。 「電車は千葉行きです。ですが台風の影響のため千葉は停電のために幕張までの往復運転を行っています」。
JR秋葉原での駅内放送でした。
ではいかにすれば東京から私の住む千葉教会に行けるのか。
その時、「京葉線」が頭の中に。東京から蘇我へ行く電車は走っていました。
蘇我からどうするかは主イエス様に任せよう。
すると途中、「千葉みなと」駅のコール、ひょっとすると…飛び降りました。
千葉市の中央を走る「モノレール」。幸いに動いていました。
千葉教会に最も近い桜木駅まで行き、無事教会に到着。
この体験を通して、天国への道をつなぐ一つの道を思いました。
その道は「モノレール」ならぬ、「イエス・キリスト」です。

磯部豊喜