みことばの花 210228「神にそむく偽証人」

みことばの花 210228「神にそむく偽証人」

「すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。」(Ⅰコリント15:15 口語訳)

昨日、私は「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。」(イザヤ45:22 口語訳)を主題聖句とする説教を語りました。
この聖句と向き合っているうちに、完成したのが死からよみがえったイエス・キリストを語ること。
この聖句を紹介することは週初めに決めていたことでしたが、当初は別の話の展開を考えていたのです。
ところがいざ準備のふたを開けると、キリストの復活を語るように導かれました。
イエス・キリストが死からよみがえられたことは聖書に記録された自明の事実です。
上記はキリストの復活をその目で目撃したパウロの言葉です。
その体験ゆえキリストの復活を否定するならば、それは「神にそむく偽証人」になると彼は断言するのです。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 1027「復活信仰」

みことばの花 1027「復活信仰」

「もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。」(マタイ 28:6 口語訳)

聖書が伝える内容で特質すべきことは、イエス・キリストが死からよみがえって今も生きておられるということです。
キリスト教会では、神を礼拝しますが、それはイエス・キリストへの礼拝でもあります。
なぜイエス・キリストを礼拝するのかというと、それはイエス・キリストが復活の神であり今も生きておられるゆえです。
死んで墓の中に納められている者を礼拝しても何の意味もありません。
死者に祈ったところで、その祈りは届くはずはないでしょう。死人には知情意は存在しない。
しかし、イエス・キリストは十字架にかかって死なれましたが、同時に確かによみがえり今も生きておられる。
これは聖書の教えの根幹です。「主はよみがえられた」はキリスト者の合言葉です。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 210226「守る」

みことばの花 210226「守る」

「言われた『あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、
わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである』。」(出 15:26 口語訳)

「すべての定めを守る」ことがここに勧められています。
その守るべき「定め」には、「あなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け」という要素が含まれています。ある本に「守る」というのは「愛すること」とありました。
確かに家を守る人は、家を愛する。妻を守る人は妻を愛する。守るものを持っている人は幸いだと思います。
さてこれらに加えて主の定めを守る(愛する)人は、健康にも恵まれるとあります(これはエジプトを脱出したイスラエル人に約束された内容ではありますが…)。
心に覚えたい良い生き方だと思います。

磯部豊喜

みことばの花 210224「あなたはここで」

みことばの花 210224「あなたはここで」

「その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、『エリヤよ、あなたはここで何をしているのか』。」(列王上 19:9 口語訳) 

今日も神に問いかけられた人の話です。
エリヤは主の預言者でした。王の前に毅然と立つ勇気ある預言者でしたが、今彼は外的な圧迫に押しつぶされ、落胆し自暴自棄に陥っていました。
いわゆる鬱状態になっていた。その状態の只中で、彼は心に語りかけられる主の言葉を聞くのです。
「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。これは聖書に登場する大昔の話ですが、今の私たちにも同様に主が語りかけられることがあります。
落ち込むとき、「磯部よ、あなたはここで何をしているのか」とその御声は問いかけて来ます。
「もう何もしたくないのです」とか「人生に疲れたのです」とか語りたくなることがあります。
そのようなとき、ここでエリヤに語りかけられた主の言葉を思い出したい。
人に関心を寄せられる主の言葉をかみしめたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 210223「人生からの問い」

みことばの花 210223「人生からの問い」

「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』。」(創世記 3:9 口語訳)

上記は神から離れた人に、神が問いかけられた場面です。
ナチスの悪名高いアウシュビッツ収容所を生き抜いたフランクルという精神科医は、「『もう人生から期待するものは何もない』ことを見出した人は絶望のうちに失われていく」と語り、続けて「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。
すなわちわたしたちは人生に何を期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわたしたちに期待しているかが問題なのである」と問いかけています。
この問いは、「神からの問い」と言い換えることができそうです。
「あなたはどこにいるのか」と主は問いかけられます。
これは人類祖先アダムに語りかけられた神のみ言葉ですが、ときどき私にも語りかけられる言葉にも聞こえるのです。
「あなたはどこにいるのか。」

磯部豊喜

みことばの花 210221「至高なるお方」 

みことばの花 210221「至高なるお方」 

「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」(ピリピ 2:10、11 口語訳)

絶対者という言葉があります。絶対者というのは「何物にも制約されずに存在し、一切の根本とされるもの」と辞書にあります。
この世の中に絶対者と呼ばれる者がいるとすれば、それは神と呼ばれるべきお方です。
この方は、神ですから当然、病気など、悩んだりすることはない。
人間は、どんなに崇高な思想と強健な体力を持っていたとしても、どんぐりの背比べです。
ところが聖書には、神と等しい方としてイエス・キリストのことが紹介されています。
上記は、まさにこのお方が絶対者であるがゆえに、「あらゆるものがひざをかがめ、
また、あらゆる舌が、イエス・キリストは主である」と告白しているというのです。
この世界にこのような目で見つめられる人が他にいるでしょうか。
至高なるお方を見上げて今日も過ごしましょう。
主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210220「岩はキリスト」 

みことばの花 210220「岩はキリスト」 

「聖書にこう書いてある、/『見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。
それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない』。」(Ⅰペテロ2:6 口語訳)

昨日、「人生砂漠にも、心の渇きをいやす水がある。キリストという岩がそれです」と書きました。
人生砂漠に流れる岩の水が神の御子キリストであると新約聖書の記者は解釈しています。
上記の聖句に、「この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、
不信仰な人々には『家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの』、」(同2:7 口語訳)と続きます。
この「隅のかしら石」はイエス・キリストを指しています。
私どもの人生に、真のいのちと深い愛、永遠の命の希望をイエス・キリストは与えてくださいます。
重篤な病のとき、キリストは私の傍にいてくださいます。そして私と共に泣いてくださいます。私と共に悲しんでくださいます。
そればかりではない、新しい道を示してくださいます。主はわたしの心身の癒し主です。
今日もライブ放送を覗いてください。主の恵みに触れてください。
心身に天来の安息を!ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 210219「人生砂漠」

みことばの花 210219「人生砂漠」

「主が彼らを導いて、さばくを通らせられたとき、彼らは、かわいたことがなかった。
主は彼らのために岩から水を流れさせ、また岩を裂かれると、水がほとばしり出た。」(イザヤ 48:21 口語訳)

古い讃美歌に「ゆけどもゆけどもただ砂原、道なきところをひとりたどる…」という暗い歌詞で始まるものがあります。
ですがこの讃美歌には続きがあります。「ささやくごとくに、み声きこゆ、疲れしわが友、われにきたれ」。
ある人は「人生は砂漠だ」と語る。砂漠をさ迷って辛いのは、水がないこと。昔イスラエルの60万以上の民は、エジプトを出立してから荒野をさ迷いました。
途中で水が絶えた時があります。そのとき、何とモーセが岩を杖で叩いたところその岩から水がほとばしり出た(出17:6 口語訳)。
イスラエル人の道程をたどると、一つの上下に裂けている岩に出会います。
これが例の岩ではないかと聖書考古学者たちは考えています。石の下には水の浸食がみられるからです。
神は不思議を名とするお方。人生砂漠にも、心の渇きをいやす水があります。キリストという岩がそれです。
今日も主の恵みがりますように。

磯部豊喜

みことばの花 210218「アーメンたるお方」

みことばの花 210218「アーメンたるお方」

「これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」(黙示録 22:20 口語訳)

「アーメン、ソーメン、冷ソーメン」などと子供の頃に遊び心で語っていた言葉を、いつの日にか祈りの後に付け加えている自分がいます。
クリスチャンは祈りの後に、「アーメン」と言います。
その意味は「まことに」とか「真実に」ですが、これを心を込めて言えるようになるのが不思議です。
私どもの会話でも、「はい!」と返事をします。いつから身に着けたことでしょう。「アーメン」も同様です。
教会で人が祈る時、慣れないと「アーメン」は言いにくい。中にはすぐにスーと言える人もいますが、すごいと思います…。
わたしはそうではなかった。でも今は言える。牧師ですから当然なのですが…。
神は「アーメンたる」お方です。

磯部豊喜

みことばの花 210217「人間の努力+α(祈り)」

みことばの花 210217「人間の努力+α(祈り)」

「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(箴言16:3 口語訳)

私は何でもかんでも「神様に祈りさえすれば…」と言う言葉は嫌いです。人間には果たすべき分というものもあります。
例えてみると、受験。勉強もしないで受験をし、祈りをささげて解答用紙に向かう。これでは絶対に受かるはずはない。
祈りは、怠け者を導くマジックではありません。不断の努力をしている人が、祈りを加える時に結果がついてくるものです。
人は精一杯努力をしても不安が襲ってくる時があります。このような時に、祈りを加えてみる。
そうしますと主は、私の傍にいて私を応援してくださいます。努力をして学んだことを、思い浮かばせてくださいます。
また何かに挑戦する時にも、アイデアを浮かべさせて下さるかも知れません。
上記の聖句は努力している人に当てはまるみ言葉だと私は受け止めています。
努力をしても人には限界があります。
そこで「なすべき事を主にゆだねる」、これが大切な気がします。

磯部豊喜