みことばの花 180730「パウロよ、恐れるな」

みことばの花180730「パウロよ、恐れるな」

「『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。」(使徒 27:24)

ユーラクロン台風は、船に乗っている者たちにとって命をさらわれるような厳しい状況をもたらしました。この船は、パウロの「出港をしないほうがいい」という忠告を聞き入れなかったために危害を被(こうむ)ったのです。それでもパウロは、「元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失なうものは、ひとりもないであろう。」と断言します。昨晩に、彼の仕えている神様が天使を送って「パウロよ、恐れるな。あなたはカイザル(当時のローマ皇帝)の前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている」という声をパウロは聞いていたからです。果たして、このパウロの言葉のとおりになります。後にパウロは殉教死することになりますが、この場面で彼は死ぬことはありませんでした。彼はローマ皇帝の前で、主を証する前に眠ることは許されていなかったのです。今日も主のみこころがなりますように。

磯部豊喜

みことばの花 180729「ユーラクロン」

みことばの花180729「ユーラクロン」

「すると間もなく、ユーラクロンと呼ばれる暴風が、島から吹きおろしてきた。」(使徒 27:14)

先の台風8号は、日本に豪雨災害と言う甚大な被害をもたらしました。まだ復興行き届かない中、今後は台風12号。関東直撃との情報がありましたが西側に曲がり、東海地方へ。関東方面から西側に曲がる台風はこれまで見たことがありません。1951年よりの観測では初めてのことだそうです。今は大阪あたりを走っているのではと思います。12号で再び人命が失われないように今度は真剣に祈っています。聖書の中には、「有楽町」に似ている名で「ユーラクロン」という名の台風が登場します。これは、パウロが囚人として護送されるローマ行きの船に乗っている時に出会った台風でした。船は帆をおろして流されるままになります。「幾日ものあいだ、太陽も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みのなくなった」(使徒27:20)とルカは書いています。この有様の続きは、後に配信する予定の「みことばの花」をお読み下さい。

磯部豊喜

みことばの花 180728「心という容量」

みことばの花180728「心という容量」

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。」(ルカ 5:38)

温故知新(おんこちしん)という言葉があります。「故(ふる)きを温(たず)ねて新(あたら)しきを知(し)る」、または「故(ふる)きを温(あたた)めて新(あたら)しきを知(し)る」と訓読する。これは孔子の論語にある名言だそうですが、いまひとつ分かりにくい。ところで上記はキリストの残された名言の一つ。新しいぶどう酒(発酵していない酒=ぶどうジュース)は、空気に触れるとやがて発酵します。そうなると弾力のない古い皮袋では、発酵する力に耐えられずに、パ~ン!と音を立てて破れる。ですから新しいぶどう酒は、弾力のある新しい皮袋へ入れるのがベストだという。同じように、真理の言葉も人の心に入るとパ~ン!とはじけるほどの力があります。これを受け止めるには、古く凝り固まった狭い心では耐えられない。新しい柔軟な心を持つことが大切です。今日は第七日安息日、これもただ掟(おきて)だから守る…から、さらに進んで、神を愛するので守る…となって行く(ヤコブ2:8、一ヨハネ5:3参照)。常に「心という容量」を柔らかく広げたいものです。ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 180727「そのとき、…逃げよ」

みことばの花180727「そのとき、…逃げよ」

「そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。」(ルカ 21:21)

次のような一文を見ました。「人間は自分が予期しない災害などに遭遇した際に、まさか自分がそんなことにあうわけがない、自分は大丈夫だろうと、それを無視したり軽視したりする心理があります。これは『正常性バイアス』というもので、心の安定を図るために大切なものです。『バイアス』とは偏見や先入観といった意味ですが、この心理的メカニズムがなければ、一々些細な事柄に過剰反応して心が持ちません。ただ大きな災害に遭遇した際には、逆にそのメカニズムのために逃げ遅れるということにもなりかねません。正常性バイアスの一番の問題は、行動しないで逃げ遅れてしまうことです。この対策・対処法としては、普段から手順を決めておいて、その訓練をすることが大切です」。この度の西日本豪雨災害にあって家々は被害を受けましたが、全員無事であった村落がありました。村落のリーダーの方は東日本大震災体験者で四国へ移った後、その村落で災害訓練を導いていました。やはり備えに勝るものはないようです。

磯部豊喜

みことばの花 180726「尊い人」

みことばの花180726「尊い人」

「愚かな者は、もはや尊い人と呼ばれることなく、悪人はもはや、りっぱな人と言われることはない。」(イザヤ 32:5)

上記の言葉をもっと分かりやすく描いている別の訳があります。「その時には、神様を敬わない無神論者は、決して英雄になれません。たとい金持ちでも、人をだます者は、りっぱな人と呼ばれません」(リビングバイブル)。「愚かな者」を「無神論者」と訳す。これは聖書の別の箇所で「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」(詩篇14:1)とあるからでしょう。また「悪人」を「人をだます者」と替えています。「彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない」(詩篇14:1)とある。そうなると上記の「尊い人」とはどういう人のことになるのでしょう。「神様を敬う人」となる。愛の神様を「神として持っている人」は、結果として「善を行なう者」になることでしょう。そしてこのような人は、単なるご利益的な生き方もしない。どんなにマイナスの出来事がやってきても、神をのろうことをしない。それでも神様の最善を信じて神を賛美します。…私も、そういう人に少しでも近づけたら幸いだと願うのです。主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

 

みことばの花 180725「将来」

みことばの花180725「将来」

「パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。」(Ⅰコリント 3:22)

今日は朝の「みことばの花」ではなく夜の「みことばの花」になってしまいました。朝からバタバタとしてしまい落ち着いて机に座ったのが今という状況です。さて、ノスタルジーという言葉がありますが、これはフランス語で「過ぎ去った時間や時代、ふるさとを懐かしむ」という意味を持っています。私も最近、よく昔を懐かしむことがあります。「昭和のよき時代」などといって懐かしみます。そして今をチョッピリ否定的に考え、将来には憂いが漂ってしまうのです。これが年を取るということなのか、どうか…。しかしパウロが、将来という言葉を使う時は、実に前向きです。「生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのもの」と言います。確かに「過去は変えられないが、将来は変えられる」という言葉もあります。いつまでも過去にとどまるのではく、神の輝ける約束を信じ、希望の将来があることを信じて生きていくのは、大切なことだと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花 180724「待つ」

みことばの花180724「待つ」

「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。」(ハバクク 2:3)

毎日酷暑が続いています。連日「危険な暑さ」という言葉で紹介されるのは、私の記憶では初めてです。「なぜこんなに暑いのですか?」と叫びたくなりますが、信仰の言葉では「いつまでなのですか」。一昨日、大切な娘さんを亡くされたご家族に会って来ました。今年成人したばかりの夢あふれる若者。報告を聞いたときに「神様、何故なのですか?」と心の中で叫んでいる自分がいました。ですが自分の心で言い直して「神様、この悲しみはいつまでなのですか?」と今は祈っています。死もなく悲しみも叫びもない神の国を求める心を、今一度磨きたいと思いました。神様は「もしおそければ待っていなさい」と言われます。キリスト者は待つことの向こうの明日(あした)を描く民です。主の愛のみ手を離すことなく、頓挫(とんざ)することなく信仰でつながって行きたいと思います。今日も主のみ手の導きがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180723「希望」

みことばの花180723「希望」

「その日、人は言う、『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう』と。」(イザヤ 25:9)

聖書は希望の書です。なぜかというと、私たちにとってもっとも悲惨な罪とその結果である死から全く解放されることが約束されているからです。それはキリストの十字架と再臨です。十字架は、「わたしはあなたの罪を許している」という宣言です。そして再臨は、十字架でなされた宣言を、心から受け入れる人に新しい命が与えられる希望の出来事です。十字架は信じる者への「永遠の命」の保証、再臨は完全な救いの時と言って良いでしょう。私たちの神は愛の神、希望の神です。上記の御言葉は、キリストの再臨を待ち望む人々が、キリストがこられる時に叫ぶとされている喜びの表現です。共に、主を見上げてこの喜びの中に加わっていただきたいと願っています。主の限りなく愛と守りとが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180722「賜物」

みことばの花180722「賜物」

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ 6:23)

聖書の教えの中で一番おそろしいもの、それは「罪」です。罪とは命の主である神様と関係が壊れている状態です。そして「罪の支払う報酬は死」。無知なために神を愛の神として受け止められない人がいます。しかし間違いなく神は愛です。この世界にはあまりにも悲惨なことが多すぎます。それで「神は愛ではない。神が愛ならばどうしてこんな悲惨なことが起こるのか」とその愛を疑うのです。ですが神様の愛はすでに証明されています。それは愛する独り子を、罪を犯した地球に遣わしてくださった。しかも御子キリストが十字架にまでかかって死んでくださった。この神の賜物(プレゼント)なるキリストを私の救い主であると信じ受けとめる時に、私に永遠の命が始まります。これは約束です。今日もこの神様の愛の約束をしっかりと受け止めて過ごしたいと思います。

磯部豊喜