みことばの花 210331「失敗」

みことばの花 210331「失敗」

「しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。」(ローマ 11:12 口語訳)

「挑戦しなければ失敗しない」。しかし失敗を恐れ何も挑戦しないよりは、挑戦して失敗することのほうが価値はあると思います。
本田宗一郎さん(ホンダの創始者)が「失敗は、その一歩の踏む込みだと思う。前進への足跡だと思う。…『サルも木から落ちる』という言葉がある。慢心とか油断へのいましめである。…しかし、私はサルが新しい木登り技術を学ぶために、ある試みをして落ちるなら、これは尊い経験として奨励したい」と述べています。
上記はユダヤ人の「失敗」が異邦人の富となったとある。この「失敗は前進への足掛かり」とは異なりますが、果たしてこれも良いことだったのか???
聖書は実に前向きな解釈をする書物であると思います。

磯部豊喜

みことばの花 210330「人生のメダリスト」

みことばの花 210330「人生のメダリスト」

「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ 3:14 口語訳)

古賀俊彦さんのことをもう少し書いてみたい。
古賀さんがバルセロナで金メダルに輝いたとき、事前練習でじん帯に傷を負っていたとのこと。それでも見事に勝ち上がった。
この古賀さんはいくつかの名言を残しておられます。
「練習で限界を超えた自分を知っておかなければ、本番には勝てない」「成功する人間とそうじゃない人間の違いは、体力の差でも、知識の差でもない。意志の差だ。」「あきらめからは何も生まれない。1%の可能性でも見出そうと、壁に向かったときこそ、自分の中に秘められていた、新たな力が出てくる。」
これが金メダリストの心なのか…と納得させられます。
さて、わたしも金メダリストとまではいかなくても上記のパウロの言葉のように神の賞与(人生のメダリスト)を目指したいのです。
人生のメダリストは、自分の限界を知り、意志を神にささげること、決して自分の成長をあきらめないこと。
主の助けを受けてそうなれると信じること。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210329「主も悩まれる」

みことばの花 210329「主も悩まれる」

「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、…」(イザヤ 63:9 口語訳)

「平成の三四郎」と呼ばれ、バルセロナ五輪柔道金メダリストの古賀俊彦さんが3月24日に亡くなられました。
古賀さんの言葉に「初めてのオリンピックでは、3回戦敗戦。待っていたのは、メディアの手のひらを返したような冷たい反応でした。
この時は、本当に落ち込みましたね。自信を喪失したし、人間不信にもなった。でも、そんなとき偶然見たオリンピックの編集編の番組に、自分が負けた試合の後、応援席で周りに懸命に頭を下げる両親の姿が映っていたんです。私は一人で戦って、一人で負けたと思っていました。ところが違った。
それからですね。結果を恐れず、純粋に自分の目指すものに向かって挑戦していこうと思うようになったのは。」
私どもは、自分一人が荷物を背負っていると感じることがあります。
ですが自分の悲しみを共に背負ってくださる主を知ると、古賀さんのように勇気が湧いてきます。

磯部豊喜

みことばの花 210328「白旗」

みことばの花 210328「白旗」

「主は仰せられる、わたしの言葉は火のようではないか。また岩を打ち砕く鎚のようではないか。」(エレミヤ 23:29 口語訳)

昨日バプテスマをお受けになられたKさんのことを少し紹介しましょう。この方は、人好きで社交的、また親切な人です。
ところがことキリスト教の神への信仰に関しては、なかなか「うん」と頭を立てに振ることがありませんでした。
クリスチャンの奥様が愛情を込める説得もなんのその。50年間もそのように過ごしておられました。
ところがそのKさんが昨日、バプテスマを受けられました。
その証の中で「私は頑なに信仰を拒み続けました。どうしても神の存在を信じる事が出来なかった」ということと、
身の回りにいろいろなことが起きて「時は満ち、ついに私は白旗を上げたのです」と涙ながらに話されたのが実に印象的でした。
このKさんを通して神がおられることを、私はさらに確信を深めることができました。

磯部豊喜

みことばの花 210327「水を経て救われる」

みことばの花 210327「水を経て救われる」

「…その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。」(Ⅰペテロ 3:20 口語訳)

昨日はついに「みことばの花」を書くことができませんでした。
ですが昨日はとても嬉しく感動的な安息日を送らせて頂きました。
それはKさんという方と、Rさんという方が、キリストの教えの中でも大切な「新生」の意味を持つ儀式であるバプテスマ(洗礼)を受けてくださったからです。
人はバプテスマによって新しい命を持つというのです。
人はこのバプテスマを受けて新しくされるというのですが、その象徴の原点になっているのが上記の聖句で、ノアの箱舟に遡(さかのぼ)るようです。
ノアとその家族八名が箱舟に乗り込んだ後に空から大雨が降ってきました。船は水に飲み込まれましたが、彼らは救われました。
「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16 口語訳)とあります。
すべての人がキリストを救い主として受け入れ、水を経て救われ、永遠の命を受けて欲しいというのが私の熱い願いです。

磯部豊喜

みことばの花 210326「過去を捨て」

みことばの花 210326「過去を捨て」 

「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。
すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、」(ピリピ 3:13 口語訳)

「後ろのものを忘れ、前のものに向かって」は、わたしの目指したい言葉です。
しかしこういうのは困ります。過去の記憶を思い出せない。「あの人何という名前だったかな」とか、「あれどこへ置いたっけ…」。
脳が破壊されつつある姿(わたしのことですが…)は嫌ですね。しかし「心にしみついた怨念」とか「どうでも良いことにこだわっている自分」は忘れたい。
罪の誘惑に負ける自分、マイナス思考を捨てられない自分、これともサヨナラをしたいものです。
「前のものに向かって」とは、神がわたしのために用意してくださっている輝く世界です。過去の有意義な教訓は振り返って良い。
ですが、わたしは過去に生きていない。今をそして未来を生きるのですから、「前にむかってからだを伸ばしたい」と思います。
主の守りが今日もありますように。

※追伸:明日は、千葉教会でのお別れ説教です。
嬉しいことに明日の礼拝ではバプテスマといって、「前に向かって」歩む人生を後押しさせて頂く予定も組まれています。
どうぞライブ配信(10:30より)を覗いてみてくだされば幸いです。

磯部豊喜
・・・・・・・
3月27日(土)ライブ配信 URL です。
礼拝説教  URL 3月27日(土) 10:30
https://youtu.be/25bZNnysAlI

みことばの花 210325「花

みことばの花 210325「花」

「野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(ルカ 12:27 口語訳)

西東京市(自宅)に戻り、久しぶりに近くの遊舗道を散歩しました。桜の木に桜の花びらが少しずつ芽吹いてきているのを見ました。
来週には満開になりそうな勢いです。慌ただしい人の世界に、この花があるのは素晴らしいと思います。
八木重吉の誌に「綺麗な桜の花をみていると、そのひとすじの気持ちにうたれる」とあります。
命の短い桜の花、ですが一年分の力を開花させてくれます。この桜花を見るとき、これを造られたお方を思いわずにはいられません。
人生の試練の時、悲しい時、辛い時に、一歩足をとめて桜の花を見たい。
すぐに散る桜ではなく、私どもを励ますためにこの季節にため込んだエネルギ―を、見事に開花させるその溢れる力を見たいのです。
今日は3月25日、主を仰いで過ごしたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 210324「教えと知識」

みことばの花 210324「教えと知識」

「あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教を受けよ、精金よりも、むしろ知識を得よ。」(箴言 8:10 口語訳)

引越しにまつわる話ばかりで恐縮です。今回の移動で書籍を段ボール7~8箱分処分しました。
それでも私の部屋は本と数多(あまた)の書類のために、他の部屋を多少お借りする以外に整理は困難。
ところでこれまで本を集めることに喜びを感じていた気がします。買い求めはしても読み切っていない本がいかに多いことか…。
そのような思いでいたところ、上記の聖句が心に留まりました。
「銀」や「精金」を「本」に、「わたしの教え」を「本の教え」に置き換えてみますと、「銀(本)を受ける(持つ)よりも、わたしの教え(本の教え)を受けよ」となる。
「精金(本)よりも、むしろ知識を得よ」となる。本を持って満足するのでなく、その教えを受けたい。命の書である聖書は特にしかりです。
聖書を所持して満足するのでなく、中身をさらに熟読、いえ精読したいのです。

磯部豊喜

みことばの花 210323「最後の定住地」

みことばの花 210323「最後の定住地」

「この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。」(ヘブル 13:14 口語訳)

先日(3/18)アブラハムの移住場所は数えて12か所あることを書きましたが、私の住まい替えは、今回千葉市から西東京市に戻ることで21回目になりました。
思えば、社会人になるまでの住まいは山口下関市で生まれ、北九州市八幡、北九州市戸畑、千葉君津市、木更津市の5か所。
社会人になって東京葛飾区、練馬区、千葉木更津市、大多喜市(三育学院)までで4か所。
牧師になり名古屋市、仙台市、東京大田区、埼玉狭山市、静岡市、札幌市、東京八王子市、大田区、武蔵野市、西東京市、千葉市、西東京市で12回。
これらを合計すると21回。牧師の人生はまさに旅ガラス。
そして最後の定住地は、永遠に心の落ち着く地、天の都としたいのです。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花210322「新しく造られる」

みことばの花210322「新しく造られる」

「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。」(ガラテヤ 6:15 口語訳)

人間というものは、何事につけ自分を変えることが難しい存在だと思います。自分のスタイルが一番だと思い込んでしまうからです。
古いスタイルに慣れてしまうと、新しいものがなかなか入ってきません。
そこでこれは自分に向けて語るのですが、「最近の若いもんが…」と口には言わなくても、態度で示すようであれば、自分は古き時代の人間になってしまいます。聖書を別の角度から眺めてみますと、実に「新しい天と地を見た」とか「古いものは過ぎ去った、見よすべてが新しくなった」という言葉が目に飛び込んできます。
「新しい」ことに挑戦しなさい…と語っているかのようです。この度、引っ越しの準備をする中で、古いシステムを捨てることの難しさを実感しました。
いつまでも古い物を持ち歩く自分がいます。ですが新しいものにも慣れなくては感じました。
さて、今日の聖句も「新しく造られることこそ、重要」(これは物ではなく、者ですが…)との聖句は私の心に重く響くのです。

磯部豊喜