みことばの花 180531「慰め」

みことばの花180531「慰め」

「わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。」(詩篇 94:19)

「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」(マタイ6:25)、「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(同6:27)、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている」(ルカ10:41)。以上はイエス・キリストのお語りになられた言葉ですが、人は「思い煩う」者であることが分かります。しかし「思う煩う」ことは意味のないことと知りつつも「思い煩って」しまう。そのような人にピッタリと寄り添ってくれる御言葉があります。それは上記の聖句。「思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます」。「思い煩うな」と言われるお方は、同時に「慰め主(ぬし)」なるお方でもある。慰め主に出会うために、「思い煩い」も許されているのかも知れません。主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180530「他人を喜ばす人生」

みことばの花180530「他人を喜ばす人生」

「心に憂いがあればその人をかがませる、しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。」(箴言 12:25)

つぎの言葉を発見しました。「他人を喜ばすことに生きがいを感じれば、それは天職へと転じていきます。つまり、他人を喜ばすこと自体が一つの立派な才能なのです」(ジョセフ・マフィー=米国の教育家/牧師1898-1981)。最近のこと、「ヤングマン」という歌などで有名な歌手の西城秀樹さんが63年の生涯を閉じました。葬儀の参列者約1万人というのはすごい。この人は、常に「ファンを喜ばすことを」考えておられたといいます。まさにマフィー牧師の言葉の通りに生きられた方のように思います。晩年は病気のオンパレードのような西城さんでしたが、それを一つ一つ「ファンのために」といって克服する努力を欠かさなかったようです。「他人を喜ばす」ために徹した人生は素晴らしい。キリスト者である私も、この精神を見習いたい。単なるそぶりやリップサービスではなく、心から人を喜ばせることが出来たら、それは真の意味で大成功の人生ではないかと…思う。主の恵みをますます受け、今日の一日を歩んでまいりましょう。

磯部豊喜

みことばの花 180529「…前に」

みことばの花180529「…前に」

「また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。」(伝道の書 12:2)

昨晩、犬の散歩の帰路、家の入り口までの外階段を昇っている時に、きれいな月を見上げました。すると同時に月に見られているような感覚がしました。私が見上げる月は小さい。しかし実際は途方もなく大きい。月よりも人間ははるかに小さい。それにもかかわらず大言壮語(たいげんそうご)する。そういえば小さな犬ほどよく吠(ほ)えるという。人間は小さいので吠えるのだろうか。さて上記のみ言葉、「…前に」を着目(ちゃくもく)しました。人生の終りが来る、その「前に」という意味です。さて、人生の終りが来るその前に何をすればよいのか。前節にこう書かれています。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」(同12:1)。人間どころか月さえも造られた偉大な創造主を覚えよと教える。そして「この偉大な方に結ばれることを急げ」というのです。偉大な方を心に迎え入れ覚えていると、吠える必要はなくなる。今日も主にゆだねてオオラカに歩めれば幸いです。

磯部豊喜

みことばの花 180528「これも悪いこと」

みことばの花180528「これも悪いこと」

「あなたのあだが倒れるとき楽しんではならない、彼のつまずくとき心に喜んではならない。」(箴言 24:17)

「それみたことか」という言葉、これは自分にとって仇(あだ、かたき)のような人が、失敗したり、倒れたりするときに、してやったりと思うときに出てくる言葉です。自分の敵がつまづくというのは、私には痛快に感じることでしょうか。ですが、このような心の動きに対して、上記の御言葉(みことば)は釘を刺しています。敵の不幸を見て、それを喜ぶという人の心の動きをけん制しています。この聖句は「主はそれを見て悪いこととし、その怒りを彼から転じられる。」(箴言24:18)と続きます。たとえ敵であっても、その人の不幸を見て喜ぶとしたら、「主はそれを見て悪いこととする」という。反対にそれが敵であっても、その人が失敗するのを見て、あわれみの心で見ることができたらすごい。イエス・キリストはそのような心の持ち主でした。「あなたの敵を愛せよ」と言われたのですから…。これは私には遠い生き方、されど魅力のある生き方だとも思います。今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの 花180527「変化」

みことばの花180527「変化」

「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」(ヤコブ 1:17)

今、米朝関係は変化がめまぐるしく展開しています。お互いの心理作戦なのかどうか…。人間は時と場合によっては変化を好むようです。そころで興味深い記事を見ました。【「おめでとう。めっちゃきれいやったでー。」「ありがとう。そんなん言うてもらえてうれしいわぁ。先週整形しといてよかったわぁ。」(結婚式にて)…花嫁のこの受けには「整形間に合ってよかったなぁ」よ返す。「元からきれいだよ」ではなく。…友人のほめ言葉をボケで受ける花嫁に、「おもろい」言葉をさらに被(かぶ)せて話を転がしてゆく大阪人のもてなしの作法である】と。ところで決して変化しないものがあります。それは神様の贈り物。確かに、神様は悪い者にも、良い者にも分け隔てなく雨や太陽を与えてくださいます。そして聖書のみ言葉も…。揺るがない神の愛を見つめて今日も歩んでまいりたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 180526「大切なもの」

みことばの花180526「大切なもの」

 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(マタイ 6:25「【新共同訳】)

「大切」という言葉…好きでしょうか。私は好きです。では私にとって何が一番大切なのでしょう。サインズに素敵な話が載っていました。「ある若いご婦人が追突事故を起こしてしまいました。警察官から免許証と車検証の提示を求められ、動揺しながら車検証を取り出そうとすると、そこに一枚のメモが入っていることに気がつきました。そこにはこう書かれていたのです。『僕にとって大切なものはこの車ではなく、君のほうだよ』。運転に不慣れな妻が事故を起こしてしまったために、あらかじめ用意されていた夫からの愛のメッセージがそこにありました」(2018年4月号p49)。この妻を愛する夫のように、天の神様は私たちを「大切なのは君だよ」と言って下さる。今日は第七日安息日、神様のラブレターが時間の中にいっぱい詰まっている一日です。ハッピ、サバス!(幸せな、安息日!)をお過ごしください。

磯部豊喜

みことばの花 180525「自分も含めて」

みことばの花180525「自分も含めて」

「われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。」(ダニエル書 9:5)

最近、問題を起こした人に対して、報道陣が詰め掛けて激しい質問攻めをする光景を見ることがあります。人の罪はよく見えるものです。そして自分には全く罪がないように涼しい顔をして過ごす。わたしもその一人ではないか…と、上記の聖句を読んでいてハッとさせられました。上記の聖句はダニエル書9章。これはエズラ記9章、ネヘミヤ記9章と並んで、旧約聖書の「3大懺悔の祈り」と呼ばれています。どれも9章とは不思議な気がします。ダニエルの祈りには、「自分は罪がない」「けれどもイスラエルの人々は罪を犯した」とは語っていない。神から離れて罪を犯したのは、イスラエルの王や王を支持する人々でした。しかしその罪人の中に自分も入れてダニエルは祈りました。「われわれは罪を犯し」と彼は祈った。このような祈りの心は、キリストの十字架の上でも見られます。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)。そしてキリストは罪人の一人として十字架に…。罪を犯さなかったにもかかわらず。これもまたハッとさせられる内容です。

磯部豊喜

みことばの花 180524「偽りの神」

みことばの花180524「偽りの神」

「人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。いつまでむなしい言葉を愛し、偽りを慕い求めるのか。〔セラ」(詩篇 4:2)

最近、日本の社会はどうなったのか…と考えてしまいます。自分を守るためなのでしょうが、正直にものを言わなくなったように思います。すべてがそうではありませんが、「火のないとろこに煙は立たない」という言葉が当てはまる場面を見ます。今回は、アメリカンフットボールで悪質タックルをしてしまった日大選手が胸のうちを全部さらけ出しました。それに対する「監督、コーチ」の見解はまったく違っています。これとは違う競技ですが、女子レスリング界でも似たようなことがありました。また国会でも…。誰かが「偽り」を語っているとしか受け取れない。この国から真実が消えてしまったのか…と訝(いぶか)ってしまいます。詩 40 篇4節に「主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。」という言葉があります。「偽りの神」という言葉は意味深長(いみしんちょう)です。私は誰を神として迎え入れているのかが問われている気がします。今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180523「実践」

みことばの花180523「実践」

「弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。」(マタイ 10:24)

「子育ては親育て」と良く言われます。そして子育ては単に体を大きくするようなものではなく、その心を育てる事だともという。体を育てるのは食べ物を与えていれば良いので簡単です。ですが心を育てるとなると別。親が自分自身の心を育てない限り、それは難しい。喧嘩の絶えない子供達に困っていた父親があるセミナーで、「お互いに愛し合いましょう」という言葉を聞いて、よしこれだ!と確信して家に帰った。そして子供たちを集め、「子供らよ、今日はお父さん、とってもいいことを学んだ。お前たちはいつも喧嘩ばかりしている。これは良くない。互いに愛し合いなさいという言葉を教わった。だから兄弟仲良くしなさい。このバカ!」と説教をしたという。「バカ!」が余分。滑稽なお話ですが、私も似たようなことをしてしまっているかも知れません。実践の伴わない教えは、言えば言うほどかえって害になるような気がします。師となる者は、まず実践を自分自身に課す。こういう生き方が出来たらと思うのです。

磯部豊喜