みことばの花 210118「死ぬことは益?」 

みことばの花 210118「死ぬことは益?」 

「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」(ピリピ 1:21 口語訳)

パウロと言う人は、キリスト教を世に広めた第一人者です。この人がいなかったらキリストの教えの素晴らしさは、しっかりと確立されていなかったかも知れません。
このパウロが人生を豊かに送れた鍵は、「イエス・キリスト」そのお方に出会ったことにありました。
彼は上記の聖句を書いた人ですが、「わたしにとっては、生きることはキリスト」であると言い切っています。
そしてさらに「死ぬことは益である」とさえ語っています。
「生きることは益である」ならば分かりやすいのですが、「死ぬことは益である」とはどういうことなのでしょう。
自我に死ぬとか内面的な死を指すとも受けとれますが、実際の死(命を失う)さえも益であるとも解せます。
事実、パウロは死を恐れない心を持っていました。彼は体験していたのです。死の向こうにもっと素晴らしい命があることを。
どのような体験をしていたのか、明日に続きます。主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210117「永遠の命とは」

みことばの花 210117「永遠の命とは」

「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ 17:3 口語訳)

人の定め・・・生ある者は必ず死ぬということです。そして死に方は、それを望むが望まないが幾通りとある。
私の知っている某牧師は、「自分はがんで人生を終えたい」と語っていました。その理由は「死の前にいろいろと準備が出来るから」と語っていました。
確かに、不慮の事故などでは何もできずに終わってしまう。心残りが軽減されるという点ではがんも悪くないのかも知れません。
ですが死への備えの中で、希望に満ちた備えは、イエス・キリストを知り信じて死ぬことだと私は考えています。
上記の聖句には「永遠の命」があり、それに至る鍵が書かれています。
「永遠の命」があるかないかを信じるのは人の自由ですが、これを信じないで人生を終えるのはもったいない。
キリスト者の最後の合言葉は「また会いましょう」。「永遠の命」はあります。神の約束だからです。

磯部豊喜

みことばの花 210116「み言葉を行う」

みことばの花 210116「み言葉を行う」

「火よ、あられよ、雪よ、霜よ、み言葉を行うあらしよ、」(詩編 148:8 口語訳)

「主の尊きみ言葉は」で始まる古い讃美歌があります。その第一節はこうです。
「主の尊きみ言葉はわが命の基(もとい)なり。頼るわれは安けしや、世にまたなきみ言葉よ」。
ここのところ「主のみ言葉に素直であれ」が、繰り返し私の心に響きます。
上記の聖句は、自然界が主の御言葉に従順であることを教えているのでしょうか。
リビングバイブルはこれを次のように訳しています。
「いなずま、雹(ひょう)、雪、雨、風、それに霧よ、神様のお指図に従いなさい」。
この詩篇記者は、このように語ることによって、神に造られた人間の本分を教えているのでしょう。
やがてきたる天の国には、神への反逆はない。今の世界は、神への反逆の歴史。
その空気に流されず、今日、素直な心で神様の御前(礼拝)に参加したいと思います。
ハッピー・サバス!

磯部豊喜
・・・・・・・
1月16日(土)ライブ配信 URL です。
安息日学校 URL 1月16日(土)10:00 聖書の学び(イザヤ-わが民を慰めよ)3課「あなたの世界が危機に直面するとき」磯部豊喜
https://youtu.be/ajMPxkn7v14
礼拝説教  URL 1月16日(土)11:00 説教題「リバイバルー10の聖句」 磯部豊喜
https://youtu.be/u3aI3Z99PXs

みことばの花 210115「逆らう」

みことばの花 210115「逆らう」

「ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。」(ローマ 9:20 口語訳)

昨日「従順」というタイトルで、神様に対しては従順であることの必要を書かせて頂きました。このメッセージは実は自戒のメッセージです。
「自分は比較的素直な性質だ」と自認していたのですが、青年の頃「磯部さんに何かを語ると、必ず『でも…』という言葉が返ってくる」と知らされたことがありました。
このような言葉が意識せずに飛び出してくるということは、私の本来の姿は、「素直ではない」ということなのでしょう。
ですがそれでも天の神に対しては素直でいたい…と、私は強く願っています。なぜならば神は私を母の胎内で造ってくださったお方。
人に対しては時に、右と言われたら左と言いがちな私かもしれませんが、神の御言葉に対しては逆らわず、水戸黄門の登場する場面のように「ははっ!」と平伏したいのです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210114「従順」

みことばの花 210114「従順」

「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、
いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」(ピリピ 2:12 口語訳)

上記の聖句に「従順」という言葉が2回登場しています。
従順とは「おとなしくすなおなこと。すなおで、人に逆らわないこと。」(岩波国語辞典)とあります。
人間は完全ではありませんので、誰に対しても「すなおであること」は良いとは言えないかもしれません。
ですが「すなおである」ことに抵抗する癖のある人がいます。相手が右といえば左、左といえば右に向く。
この癖は、相手が神である場合にはとても危険です。聖書が記す神様は愛ですし、その言動に過ちがありません。
神の御言葉に対しては「従順」こそ救いの鍵です。
何かにつけ逆らいたくなる癖のある人は、神の御言葉の前には平伏することを勧めたい。
それは命の御言葉ゆえ、主の御言葉の前には従順を宝としたいと思う。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210113「ねたみ」

みことばの花 210113「ねたみ」

「兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。」(創世記 37:4 口語訳)

「ねたみ、この邪悪な炎」と「ねたみ」は表現されます。
聖書の「雅歌」に「…愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです」(雅歌8:6 口語訳)と書かれているのをみてもそうです。
上記の聖句は、最もひいきしている妻(ヤコブには4人の妻がいた)ラケルから生まれた年少の子供ヨセフに対する父ヤコブの「愛情」が、他の兄弟たちの「ねたみ」を買っている言葉です。
この「ねたみ」は人間が克服しなくてはならない性(さが)です。これを野放しにすると、恐ろしい行動に変わることがあるからです。
「父に愛されて良かったね」と心から言えるには、愛が必要です。
「ねたみ」に勝利する愛を、愛の神から頂きたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 210112「弱者のために」

みことばの花 210112「弱者のために」

「あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。
貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ記 19:10 口語訳)

聖書の神は、弱者や貧しい者に対してとても優しいお方です。
畑を所持する農場主に対して、すべての産物を取りきらないで、貧しい者や寄留者のお腹を満たす余地を残しなさいと言われます。
今、コロナワクチンを富裕国が奪い合っているという。これに対して疑問を呈している人がいます。貧しい国の人々にも等しく分けるべきではないかと。
そしてそのほうが結果として経済効率も良くなると。他者が潤えば、自分も潤う。ところでマイクロソフトの創始者ビル・ゲイツの生き方に感動します。
彼は巨万の富を得た人ですが、貧国救済のためにその財団より多額の資金を投じているという。その額は日本のそれよりも多いと知りました。
弱者に目を向けられたら素晴らしいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 210111「さいわい」

みことばの花 210111「さいわい」

「慎んで、み言葉をおこなう者は栄える、主に寄り頼む者はさいわいである。」(箴言 16:20 口語訳)

「さいわい」という言葉は、「幸い」と漢字で書きます。この幸いは、十字架と十字架に挟まれて立つと書かれています。
確かにキリストの十字架に覆われて立つ人は「さいわい」な人だと思います。
私どもの魂の敵は、「お前は罪深い、お前は決して救われない」と常に私の心に語りかけて来ます。
しかしキリストの十字架は、この敵に声(剣)に対する最大の鎧です。
「確かに私は罪深い者です。ですがこの罪深い者のために、わたしに変わってキリストが十字架にかかってその罪を背負ってくださったのだ。わたしはキリストの十字架に守られている。」と答えると良い。
「主に寄り頼む者はさいわいである」を今日、心に刻んで歩みたい。私の弱さ、欠点、失敗を見つめ反省することは必要です。
ですが必要以上に自分を見つめないようにしたい。キリストの十字架の愛の中に立ちたいと思います。
主も守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210110「御子を見つめる」

みことばの花 210110「御子を見つめる」

「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」(ヨハネ 3:17 口語訳)

毎朝、私どもの教団が発行している「今日の光」という小さな本を夫婦で読んでいます。
今朝の聖句は、上記でした。本文で私の心を引いたものを紹介しましょう。
「不信仰の中で震えている魂がいる。彼らは言う。『どうしたら神と和解することができるか。どうしたら神が私を愛し、赦してくださると確信することができるか。
…神と和解することはあなたの務めではない。すべての重荷と悩みを持ったままでご自分のもとに来るように、イエスは招いておられる。
…神がしてくださった約束と備えを受け入れなさい。目を自分自身からイエスに向けなさい。』…」
今週も神の御子イエスを見つめる一週間を過ごしたいものです。
主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210109「失望せずに」

みことばの花 210109「失望せずに」

「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。」(ルカ 18:1 口語訳)

「あきらめる」といのは、ものごとを放棄することに等しいと思います。
我が家で飼っている犬のことですが昨年11月、とても危険な体調の時がありました。それで知り合いの東京杉並区にある野々村動物病院へ。
丁寧な処置が良かったのでしょう。今は、回復して嘘のように元気に過ごしています。
今年1月3日に16歳になるほどの高齢犬なので「もはやこれまでか」と何度も思いました。
ですが「失望」するには早すぎると思い、祈りつつ愛犬と共に過ごしています。
主の教えに「失望せずに祈る」ことが勧められています。「あきらめない」で祈ることは、奇跡へ導くこともあります。
病気、失業、…の多い昨今の中、「不平や不満」を並べても何も起こりません。
「失望せずに」祈り続けたい。再度の緊急事態宣言に基づき、この期間中は教会は休会することに。
ですがライブ配信は「失望ですに」続けます。
ハッピーサバス!

磯部豊喜