一口メッセージ「主の祈りについて、思うこと」20210424

「主の祈りについて、思うこと」20210424

先週に続いて「御国を来たらせたまえ」について。
「御国を来たらせたまえ」には二つの意味があり、「心に平安が来ますように」と「再臨が早く来ますように」です。
神様がどのようなお方か知らなければ、崇めることや賛美する事は難しく、また再臨の時どのような思いで対面すれば良いかもピンと来ないのではないかなと思います。
神様について知れば知る程、神様を崇めれば崇める程、神様を賛美すればする程、神様にお会いしたいという思いが高まり、素直に「御国を来たらせたまえ」と胸をはずませ日々祈ることが出来るのかと思います。

小濱守宏

一口メッセージ「主の祈りについて、思うこと」20210417

「主の祈りについて、思うこと」 20210417

「御国を来たらせたまえ」と私たちは、常に願ってお祈りしますので、改めて御国について瞑想してみました。
「御国の一番の魅力とは?」と問われたら、ある方は、先に召された夫、妻に会うこと答えるかもしれません。
私の場合、先に眠りについた妹と、答えていましたが、今一度、自問してみました。
無理して順番を決める必要はないとは思いますが、やはり、まずイエス様にお会いできる事かなと思うようになりまいた。
なぜ、イエス様にお会いしたのか?再度、自問を繰り返すことによって。
イエス様の魅力を再発見するよい機会となりました。
これはお勧めです。

小濱守宏

一口メッセージ「主の祈りについて、思うこと」20200410

「主の祈りについて、思うこと」 20200410

私たちは、主の祈りを唱えますが、順番について以前から少し疑問に思うことがありました。
「御名が崇められるように」というのは、はじめの言葉には、最適だと思います。
そして、自分の罪を悔いて改めて、自分たちの必要を求める祈り、「日ごとの糧」という具合と思いきや、罪の悔い改めの前に自分の願い事があるのです。
私は、これを見て、まず、自分の気持ちや願いを素直に「お願します神様」と正直にお伝えしてもいいのかなという気持ちになりました。
神様は、私たちの心をよく知っておられ、「本音で私に語りなさい」と招いているのではないでしょうか。

小濱守宏

一口メッセージ「【新共同訳】ヘブル11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

「【新共同訳】ヘブル11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」 20200403

磯部先生からバトンを引き継ぎ、はじめての安息日礼拝をおこなわせて頂きます。私の人生の土台となりました聖句を紹介させて頂きます。
それは、へブル11:1です。
人生を歩む中で必ず、困難や試練が定期的に訪れます。そんな時にみ言葉は、前に進む力と勇気を与えてくれます。
私の場合は、このへブル11:1を土台にして、心に浮かんだ思いを実行に移します。
なぜなら、神様が生活の中に介入してくださる事がおぼろげながらでも感じる事ができるからです。

小濱守宏

みことばの花 お知らせ

みことばの花掲載終了のおしらせ

みことばの花を2018年4月より3年間掲載(転載)してきましたが、磯部牧師の異動により掲載を終了することになりました。

引き続き、お読みになりたい方は、磯部牧師に連絡いただければ、メールで配信されます。

連絡先:メールアドレス

磯部 豊喜 <isobe_toyoki@adventist.jp>

みことばの花 210331「失敗」

みことばの花 210331「失敗」

「しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。」(ローマ 11:12 口語訳)

「挑戦しなければ失敗しない」。しかし失敗を恐れ何も挑戦しないよりは、挑戦して失敗することのほうが価値はあると思います。
本田宗一郎さん(ホンダの創始者)が「失敗は、その一歩の踏む込みだと思う。前進への足跡だと思う。…『サルも木から落ちる』という言葉がある。慢心とか油断へのいましめである。…しかし、私はサルが新しい木登り技術を学ぶために、ある試みをして落ちるなら、これは尊い経験として奨励したい」と述べています。
上記はユダヤ人の「失敗」が異邦人の富となったとある。この「失敗は前進への足掛かり」とは異なりますが、果たしてこれも良いことだったのか???
聖書は実に前向きな解釈をする書物であると思います。

磯部豊喜

みことばの花 210330「人生のメダリスト」

みことばの花 210330「人生のメダリスト」

「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ 3:14 口語訳)

古賀俊彦さんのことをもう少し書いてみたい。
古賀さんがバルセロナで金メダルに輝いたとき、事前練習でじん帯に傷を負っていたとのこと。それでも見事に勝ち上がった。
この古賀さんはいくつかの名言を残しておられます。
「練習で限界を超えた自分を知っておかなければ、本番には勝てない」「成功する人間とそうじゃない人間の違いは、体力の差でも、知識の差でもない。意志の差だ。」「あきらめからは何も生まれない。1%の可能性でも見出そうと、壁に向かったときこそ、自分の中に秘められていた、新たな力が出てくる。」
これが金メダリストの心なのか…と納得させられます。
さて、わたしも金メダリストとまではいかなくても上記のパウロの言葉のように神の賞与(人生のメダリスト)を目指したいのです。
人生のメダリストは、自分の限界を知り、意志を神にささげること、決して自分の成長をあきらめないこと。
主の助けを受けてそうなれると信じること。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210329「主も悩まれる」

みことばの花 210329「主も悩まれる」

「彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、…」(イザヤ 63:9 口語訳)

「平成の三四郎」と呼ばれ、バルセロナ五輪柔道金メダリストの古賀俊彦さんが3月24日に亡くなられました。
古賀さんの言葉に「初めてのオリンピックでは、3回戦敗戦。待っていたのは、メディアの手のひらを返したような冷たい反応でした。
この時は、本当に落ち込みましたね。自信を喪失したし、人間不信にもなった。でも、そんなとき偶然見たオリンピックの編集編の番組に、自分が負けた試合の後、応援席で周りに懸命に頭を下げる両親の姿が映っていたんです。私は一人で戦って、一人で負けたと思っていました。ところが違った。
それからですね。結果を恐れず、純粋に自分の目指すものに向かって挑戦していこうと思うようになったのは。」
私どもは、自分一人が荷物を背負っていると感じることがあります。
ですが自分の悲しみを共に背負ってくださる主を知ると、古賀さんのように勇気が湧いてきます。

磯部豊喜

みことばの花 210328「白旗」

みことばの花 210328「白旗」

「主は仰せられる、わたしの言葉は火のようではないか。また岩を打ち砕く鎚のようではないか。」(エレミヤ 23:29 口語訳)

昨日バプテスマをお受けになられたKさんのことを少し紹介しましょう。この方は、人好きで社交的、また親切な人です。
ところがことキリスト教の神への信仰に関しては、なかなか「うん」と頭を立てに振ることがありませんでした。
クリスチャンの奥様が愛情を込める説得もなんのその。50年間もそのように過ごしておられました。
ところがそのKさんが昨日、バプテスマを受けられました。
その証の中で「私は頑なに信仰を拒み続けました。どうしても神の存在を信じる事が出来なかった」ということと、
身の回りにいろいろなことが起きて「時は満ち、ついに私は白旗を上げたのです」と涙ながらに話されたのが実に印象的でした。
このKさんを通して神がおられることを、私はさらに確信を深めることができました。

磯部豊喜

みことばの花 210327「水を経て救われる」

みことばの花 210327「水を経て救われる」

「…その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。」(Ⅰペテロ 3:20 口語訳)

昨日はついに「みことばの花」を書くことができませんでした。
ですが昨日はとても嬉しく感動的な安息日を送らせて頂きました。
それはKさんという方と、Rさんという方が、キリストの教えの中でも大切な「新生」の意味を持つ儀式であるバプテスマ(洗礼)を受けてくださったからです。
人はバプテスマによって新しい命を持つというのです。
人はこのバプテスマを受けて新しくされるというのですが、その象徴の原点になっているのが上記の聖句で、ノアの箱舟に遡(さかのぼ)るようです。
ノアとその家族八名が箱舟に乗り込んだ後に空から大雨が降ってきました。船は水に飲み込まれましたが、彼らは救われました。
「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16 口語訳)とあります。
すべての人がキリストを救い主として受け入れ、水を経て救われ、永遠の命を受けて欲しいというのが私の熱い願いです。

磯部豊喜