みことばの花 190620「出会い」

みことばの花190620「出会い」

「彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、『わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った』。」(ヨハネ 1:41)

「人生は出会いである」と言われます。そして誰に出会うのかが重要。
今月のサインズ誌の中に齋藤宣人さんの書いた「邂逅(かいこう)」と題する特別記事があります。
そこに日本社会福祉学会会長を歴任された阿部志郎氏はハンセン病患者のためにその生涯をささげた井深八重さんに出会い、
井深八重さんは神山復生病院の第五院長のレゼー神父に出会い人生の道が示されて「擁護者」の道を進んだとありました。
人と人とのかかわりの中で、互いに「出会えて良かった」と言う体験をしたいものです。
キリストの弟子たちは、イエス様に出会って魂が揺さぶられる経験をしました。
今日、良き出会いがありますように。
※邂逅=「思いがけない出会い」のこと。

磯部豊喜

みことばの花 190619「食べる」

みことばの花190619「食べる」

「また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。」
(創世記 2:9)

プリア・サヴァラン(フランスの政治家)は「何を食べているかを言ってみたまえ、君がどんな人かを言ってみせよう」と語りました。
人が食べるもの選ぶのですが、その食べ物がその人の品格をあらわすとでもいうのでしょうか。
確かに食べ方、飲み方は大切。
特に食べることで人は罪を犯しました。
心身に良いものを選んで食べたいものです。
今日もよき選びの一日でありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190618「心の楽しみ」

みことばの花190618「心の楽しみ」

「心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。」(箴言 17:22)

人生には思いもよらぬ悲しい出来事に出会い心が落ち込むようなこと、夢も希望もなくなるようなこと、
何となく生きていてつまらなく感じてしまうこと…。
人生そのものを恨みたくなるようなことが私どもの心におそってくることがあります。
そのような時、どのように乗り越えることができるのでしょうか。
その一つが、上記の御言葉の中にあります。
「心の楽しみは良い薬である」。
落ち込むとき、「心の楽しみ」を持ちなさいという。
「心の憂い」と「心の楽しみ」は、夜と昼のような関係です。
夜が来れば昼はなくなり、昼がくれば夜がなくなる。
「心の楽しみ」はどうして持つことができるでしょう。
それは「笑顔」をつくること。心が塞ぐ時、無理にでも笑顔を作ってみる。
これは結構効果的のようです。「毎日笑って、ガンが消えた」という話も聞いたことがあります。
「ワハッハ」と声を出す。
まず鏡の前に立って、「笑みを作って」今日をスタートしてみませんか。

磯部豊喜

みことばの花1 90617「時空を越えて」

みことばの花190617「時空を越えて」

「イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。
彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。」(ヨハネ 4:50)

今朝の朝日新聞に「人間の手ではなくロボットアームによる手術は、すでに始まっている。
将来は例えば、東京にいる医師が北海道の患者にメスを入れることなどが想定される。
…通信の進歩が、少し前なら想像もできなかった世界を可能にする。…」(天声人語より)。
これは場所を越えて、名医による外科的治療が行われる可能性を予想している言葉です。
ところで聖書にはすでにその事例があります。
キリストがおられたカナ(地名)に来訪した役人に「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたその瞬間に、
約30キロ先のカペナウム(地名)にいた瀕死の息子が癒されました。
キリストの癒しに近づくのが現代医学なのかも…。
キリストの癒しは時空を越えたものだと私は信じています。
今日も主の奇跡がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190616「まず」

みことばの花190616「まず」

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ 6:33)

上記はキリストの御言葉ですが、この中で私の心に響くのは「まず」という言葉です。
「まず」は「先ず」とあるように、すべてに先(さき)んじることです。真っ先に思うことです。
私が「まず」行うことは何か。
朝起きて、顔を洗うこと…??まず「祈る」ことからしたい。
「まず」は心の中心のあるところです。
「まずテレビ」の人はテレビが中心、「まず貯金通帳」の人はお金が中心、果たして私は何が中心なのかを自問したい。
「まず神の国と神の義を求めなさい」とのキリストのみ言葉には、暖かな約束もあります。
「これらのもの(必要なもの)は、すべて添えて与えられる」と。

磯部豊喜

みことばの花 190615「神は光」

みことばの花190615「神は光」

「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。
神は光であって、神には少しの暗いところもない。」(Ⅰヨハネ 1:5)

闇が入れば光は出て行き、光が入れば闇が出て行く。
これは人の心の闇と光を表現したものです。物理的には闇と光は共存出来ません。
ですが、全く闇に囲まれている人はいない。神のかたちが残っているからです。
闇の心を追い出すには、光を受け入れることが必要です。人の心の光はどこにあるのでしょう。
聖書は「神は光」だと語ります。
私は時々「教会は必要か?教会は何のためにあるのか?」と自問します。
神様という光がある以上、教会は必要です。
今日は第七日安息日、この神様という光に触れる尊い機会の日。
光に触れ心の闇を追い払って頂きたいのです。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 190614「正義感+優しさ」

みことばの花190614「正義感+優しさ」

「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。
わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ 9:13)

コンビニから煙草を盗んだ男性を捕まえた高校3年生の話を知りました。
コンビニに立ち寄った所で「ドロボー」という声を聞いて、自然に体が反応した高校生、
その男性を追いかけ追いつき、頭ごなしに叱責することなく、優しくこう語りかけた。
「どうして店のものを持っていたれたのですか?」男性は「お金がなかったから」と素直に答えたという。
この高校生は、「あなたは将来、警察官になったら」と勧められたという。
正義感を持ちながらも、優しさを失わない姿は美しい。
イエス・キリストがまさにそのようなお方でした。
上記のみことばはその姿を教えてくれます。

磯部豊喜

みことばの花 190613「終わりは近い」

みことばの花190613「終わりは近い」

「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。」(Ⅰコリント15:24) 

聖書記者は、上記のように「終末」が来ることを寸分の疑いも持っていません。
「終末」とは、「物事の終わり」と国語辞典にありますが、聖書の語る終末はこの世界の終わりを指しています。
別の表現では、罪の歴史の終わり。人類祖先のアダムとエバから始まった罪の歴史が終わると聖書は明確に預言しています。
絶えない戦争、殺人、災害、そして最後には誰にも死が訪れる、この人類歴史は、まさに罪と死の歴史だと言えるでしょう。
愛の神はこのような歴史をストップさせたいのです。
そしてこの罪と死の歴史に変わって、神の愛と義が永遠に支配する平和な世界の訪れを予告しています。
その日は近い。
この神の視点を持って過ごすことも大切ではと私は考えます。

磯部豊喜