みことばの花1 90617「時空を越えて」

みことばの花190617「時空を越えて」

「イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。
彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。」(ヨハネ 4:50)

今朝の朝日新聞に「人間の手ではなくロボットアームによる手術は、すでに始まっている。
将来は例えば、東京にいる医師が北海道の患者にメスを入れることなどが想定される。
…通信の進歩が、少し前なら想像もできなかった世界を可能にする。…」(天声人語より)。
これは場所を越えて、名医による外科的治療が行われる可能性を予想している言葉です。
ところで聖書にはすでにその事例があります。
キリストがおられたカナ(地名)に来訪した役人に「あなたのむすこは助かるのだ」と言われたその瞬間に、
約30キロ先のカペナウム(地名)にいた瀕死の息子が癒されました。
キリストの癒しに近づくのが現代医学なのかも…。
キリストの癒しは時空を越えたものだと私は信じています。
今日も主の奇跡がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190616「まず」

みことばの花190616「まず」

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ 6:33)

上記はキリストの御言葉ですが、この中で私の心に響くのは「まず」という言葉です。
「まず」は「先ず」とあるように、すべてに先(さき)んじることです。真っ先に思うことです。
私が「まず」行うことは何か。
朝起きて、顔を洗うこと…??まず「祈る」ことからしたい。
「まず」は心の中心のあるところです。
「まずテレビ」の人はテレビが中心、「まず貯金通帳」の人はお金が中心、果たして私は何が中心なのかを自問したい。
「まず神の国と神の義を求めなさい」とのキリストのみ言葉には、暖かな約束もあります。
「これらのもの(必要なもの)は、すべて添えて与えられる」と。

磯部豊喜

みことばの花 190615「神は光」

みことばの花190615「神は光」

「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。
神は光であって、神には少しの暗いところもない。」(Ⅰヨハネ 1:5)

闇が入れば光は出て行き、光が入れば闇が出て行く。
これは人の心の闇と光を表現したものです。物理的には闇と光は共存出来ません。
ですが、全く闇に囲まれている人はいない。神のかたちが残っているからです。
闇の心を追い出すには、光を受け入れることが必要です。人の心の光はどこにあるのでしょう。
聖書は「神は光」だと語ります。
私は時々「教会は必要か?教会は何のためにあるのか?」と自問します。
神様という光がある以上、教会は必要です。
今日は第七日安息日、この神様という光に触れる尊い機会の日。
光に触れ心の闇を追い払って頂きたいのです。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 190614「正義感+優しさ」

みことばの花190614「正義感+優しさ」

「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。
わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ 9:13)

コンビニから煙草を盗んだ男性を捕まえた高校3年生の話を知りました。
コンビニに立ち寄った所で「ドロボー」という声を聞いて、自然に体が反応した高校生、
その男性を追いかけ追いつき、頭ごなしに叱責することなく、優しくこう語りかけた。
「どうして店のものを持っていたれたのですか?」男性は「お金がなかったから」と素直に答えたという。
この高校生は、「あなたは将来、警察官になったら」と勧められたという。
正義感を持ちながらも、優しさを失わない姿は美しい。
イエス・キリストがまさにそのようなお方でした。
上記のみことばはその姿を教えてくれます。

磯部豊喜

みことばの花 190613「終わりは近い」

みことばの花190613「終わりは近い」

「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。」(Ⅰコリント15:24) 

聖書記者は、上記のように「終末」が来ることを寸分の疑いも持っていません。
「終末」とは、「物事の終わり」と国語辞典にありますが、聖書の語る終末はこの世界の終わりを指しています。
別の表現では、罪の歴史の終わり。人類祖先のアダムとエバから始まった罪の歴史が終わると聖書は明確に預言しています。
絶えない戦争、殺人、災害、そして最後には誰にも死が訪れる、この人類歴史は、まさに罪と死の歴史だと言えるでしょう。
愛の神はこのような歴史をストップさせたいのです。
そしてこの罪と死の歴史に変わって、神の愛と義が永遠に支配する平和な世界の訪れを予告しています。
その日は近い。
この神の視点を持って過ごすことも大切ではと私は考えます。

磯部豊喜

みことばの花 190612「いい人になる?」

みことばの花190612「いい人になる?」

「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記 3:4)

上記は、神の敵である悪魔に支配されたとされる蛇が人を誘惑した言葉です。
食べてはいけないと禁じられた木の名は「善悪を知る木」。
この木の名に、人生の誘惑が隠されている気がします。
この木を人が食べて以来、「善と悪」があたかも救いの条件であるかのように多くの人々は考えるようになりました。
言い換えれば「いい人になれたら」人は救われると説く。
しかし聖書はそうは語っていません。
あなたがどんな者であっても「私につながっていなさい」(ヨハネ15:4)とイエス・キリストは優しく語っておられます。
人の救いの条件は決して「いい人になる?」ことではありません。
「私は道であり、真理であり、命である」と言われたイエス・キリストを私の人生の中心に受けいれる(お迎えする)、これが永遠の命の道です。
今日も主の恵みが注がれますように。

磯部豊喜

みことばの花 190611「心の目をキリストに」

みことばの花190611「心の目をキリストに」

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」(ローマ 8:1) 

上記は昨日の聖句の続きです。
パウロは「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」といいます。
神の律法を喜ぶ自分(新しい自分)と、それに逆らおうとする自分(古き自分)もいる。
この自己矛盾を抱えて生きている。これを「みじめな人間だ」と表現しました。
しかしその悩みの中に彼は留まっていません。
彼は心の目を、キリストに向けました。そのとき彼の告白は一転します。それが上記のみことばです。
そのようなみじめな自分だが、キリストに属する者になり、今は罪とその結果である永遠の死という有罪宣告から解放されたと告白します。
自分が道徳的であるかどうかよりも、まずキリストを持つことが大切だと証しています。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190610「みじめな人間」

みことばの花190610「みじめな人間」

「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ 7:24)

パウロは自己省察を忘れない人でした。
自己省察というのは、自分の内面を正直に見つめることをいます。
彼は若い頃より頭脳明晰で秀でた人物でした。
しかしキリストに出会うまでは、おそらく自分を深く見つめることをして来なかった人かも知れません。
相手が悪いと決めつけたら、それを徹底的に暴くという種類の人であったと思います。
そのような彼が、イエス・キリストと出会って、自分の罪深さに圧倒されます。
ところで上記の言葉は、パウロの回心時のことではないようです。
彼がクリスチャンになってからの自己省察の言葉。「
善をなそうと思う自分と、悪が付きまとっている自分がいる」と告白します。
この自己矛盾を認め、それを神様にそのまま正直に告白するのが真のキリスト者なのでしょう。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜