みことばの花 180707「土」

みことばの花180707「土」

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記 2:7)

先日のこと、銚子の集会において興味深い話を聞きました。それは何かというと「土」という漢字についてです。この「土」、よく見ると「土曜日の土」でもある。この「土」をさらに考察すると「十字架の十に下に一がある」。これはクリスチャンの墓に似ている。十(十字架)プラス一(大地)と読める。今日(こんにち)、土曜日は安息日です。この土曜日に実は、キリストは十字架後に三日間墓の中に眠られた。「金の午後3時頃~土~日の夜明け」まで眠られた。その中で丸一日(24時間)眠られた日は、「土」曜日だけです。ところで安息日は、再創造の日とも呼ばれます。最初の人アダムは土のちりで神様によって造られました。これが最初の創造です。現在の私どものは毎週「土曜安息日」に教会に来て、十字架のキリストを見上げて再創造させられます。そいう日が「土曜安息日」だとすれば、キリストを見上げて安息日を守る人は再創造の恵みに今日もあずかることが出来るはずです。「土曜安息日」を与えてくださった主を讃えたい。ハッピー・サバス!

磯部豊喜

みことばの花 180706「愛はすべてのとがを」

みことばの花180706「愛はすべてのとがを」

「憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう。」(箴言 10:12)

私がクリスチャンに導かれた流れの一つに、「愛の人になりたい」という思いがありました。短気で怒りやすい自分自身の内側に愛の欠乏を感じていたからです。私が教会とののかかわりを持ち始めたある日のこと、当時世話になった牧師さんに「先生、人は本当に愛の人になれるのでしょうか?」と質問しました。そのとき、この牧師さん、即答で「はい、なれます!」。当時、私は「人間の愛などというものには、打算、いわゆる自分の損得勘定(そんとくかんじょう)が働く下心がある」、と考えていたので、純粋な愛などはこの世に存在しないと思っていました。しかしこの牧師さんの一言が、聖書を学ぶ動機になりました。「愛はすべてのとがをおおう」。「とが」は「咎(とが)」のこと。それは「罪の行為」のこと、「けしからぬ行い」のこと。これさえも包み込むのが真の愛。こういう愛を持っているお方を知りました。それはイエス・キリスト。この真実な愛の方とつながり続ける、そうすれば「愛の人」になれる日が来ると今も希望を持っています。今日も主の愛を見つめて歩みたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 180705「マナセ」

みことばの花180705「マナセ」

「ヨセフは長子の名をマナセと名づけて言った、『神がわたしにすべての苦難と父の家のすべての事を忘れさせられた』」(創世記 41:51)

ヨセフは、神様の奇しき導きによって「奴隷から宰相(さいしょう)」になった人です。父ヤコブ(イスラエル)に特別に愛されたヨセフは、兄たちから憎まれエジプトに向かう人々に奴隷として売られてしまいました。そしてエジプトでは、奴隷として働いていたところで主人の妻に憎まれ、牢屋に入れられてしまいました。すべて彼に非があるのではないのです。愛する父はら引き裂かれ、自己弁証(じこべんしょう)すら出来ない状況の中で、ぐっと耐え忍んで生きました。唯一、彼の支えになったのは子供時代に父を通して授かった天地万物の創造者なる神様への信仰です。神様は彼の苦しみと共に歩んでくださいました。そして宰相となってアセナテという妻を得、二人の息子が生まれます。長男にマナセ(忘れさせる)と命名。「神が苦難を『忘れさせて』くれた」と彼は受け止めました。時の流れも神様の祝福なのです。私たちの過去にも同様のことがあるでしょうか。神様によって苦難が、喜びの祝福に変わる…そういう日が来ることを信じ、天を見上げて日々を過ごしてください。

磯部豊喜

みことばの花 180704「名を呼んだ」

みことばの花180704「名を呼んだ」

「わがしもべヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。」(イザヤ 45:4)

これは明治生命の「生まれ年別の名前調査」の資料です。年代の古い順から当時人気のあった名前を男性・女性の順に書くと、1912年(明治45・大正元年)は正一・千代。1945年(昭和20)は勝・和子とある。1945年は終戦の年、男性に勝とあるのは分かる気がします。1970年(昭和45)は健一・直美。1980年(昭和55)は、大輔・絵美、確かにこの名は30代後半に多い気がします。1990年(平成2)は、翔太・愛&彩、2000年(平成12年)は翔・さくら&優花、2010年は大翔・さくら、2017年は悠真&悠人&陽翔・結菜&咲良だと。なんだか近年の人気ある名前は読みにくいのが多いです。私の名は、磯部豊喜、未だに同姓同名の人に会ったことがありません。ただ昨年のこと、健康診断で磯部豊樹さんという人に会って、同じ呼び名ですから同時に「はい!」と返信。これにより親しくなったことがあります。私の名は、神様もしっかりと呼んでくださるという。この名が神様に覚えられているならば、無上の喜びではありませんか。

磯部豊喜

みことばの花 180703「任務を果たし得たら」

みことばの花180703「任務を果たし得たら」

「しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。」(使徒 20:24)

今日の早朝、ワールドカップサッカーは残念な結果に終りました。しかし優勝候補のベルギーに対して2-3は立派なものです。後半の途中まで2-0ですから「ひょっとして勝つかも…」と日本のサポーターに大きな期待を抱かせました。しかしここは大逆転のベルギーをほめたい。日本の選手も素晴らしかったし、ベルギーの選手たちもすごかった。勝負は時の運もある。スポーツの良さは、見ているものに元気と活力を与えてくれます。さて、ここにも素晴らしい人物がいます。それはパウロと言う人です。上記のような言葉は、なかなか語れるものではありません。「主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果たし得たら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない」。サッカーボールに命をかける選手たちの姿に、このパウロの姿が重なって見えます。「任務を果たし得たら」という人生の目標を歩むことが出来たら幸いです。まず「今日の任務を果たし得たら」を心に刻んで今日一日を過ごしたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 180702「天の財産」

みことばの花180702「天の財産」

 「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(Ⅰペテロ1:4【新共同訳】)

昨晩TVで、江戸の大火のことが報じられていました。江戸の大火の中で明暦の大火(めいれきのたいか=明暦3年1月18日<西暦1657年3月2日>)は特に有名です。乾燥していたのでしょうか。18-19日にわたって山の手3箇所から出火し、江戸城の天守を含む江戸の大半が焼失。死者数は6~10万くらいと推計されています。江戸の火事は関ヶ原の戦いの翌年(1601年)から大政奉還(たいせいほうかん)が行なわれた1867年に意たる267年間に49回(5~6年に1回)も大火が発生したといいます。このことはこの地上の住まいが、いかに不安定であるかを示しています。ですが天にある住まいには大火は起こらない。しかもそこでの人の命の永遠です。この永遠の世界こそが「天の財産」だと御言葉は教えます。今日も天の財産を受け継ぐ者としての歩み(救い主イエス・キリストを心から信じて、神を愛し、人を愛する生活)をさせていただきたいものです。今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180701「命を損したら」

みことばの花180701「命を損したら」

「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタイ 16:26)

今朝もワールドカップのことをまず書いてみたい。日本第三戦の西野監督の采配(最後の10分のパス回し)に賛否両論が飛び交っています。反対派は、「サムライジャパンの名にそぐわない」という。賛成派は「とにかく結果が良かったのだからそれでよい」という。選手たちに一日でも試合を長く続けさせたい。批判を覚悟での西野さんの決断であったと思います。西野監督が第三戦に見せた采配に、多くの人々が驚いたこもう一つのこと。先発メンバーを6人も入れ替えたことです。西野さんに脳裏には決勝トーナメントが想定されていたのでしょう。主力メンバーを休ませた。すごい監督だと思います。ベルギー戦でもし勝利すれば、この決断は賞賛される。それにしても命はつながれた。キリストの上記の御言葉を思い出しました。「自分の命を損したら…」。長く長く(永遠の命に)生きることを神様は私どもに望まれます。西野ジャパンも生き延びた。「これでいいのだ…」と天才バカボンのお父さんの声?が聞こえます。

磯部豊喜

みことばの花 180630「一緒に」

みことばの花180630「一緒に」

「主は言われた『わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう』。」(出エジプト33:14)

「今日は第七日安息日…」といいたいところでしたが、30日は午後11時まで「みことばの花」を書く機会を失っていました。今夜(30日)は東京へ来てPCに向き合いました。安息日は過ぎてしまいましたが、安息日とは安息の日と書きます。そして安息は、私(人間の側)で勝手に持つものではない。安息は主から与えられることが、上記の聖句の中に記されています。そして安息の本当の意味もここに表されていました。「わたし自身が一緒に行く」、神様が一緒に行かない限り、真の安息はないのだと教えられました。ところで神様はどういう時に一緒に行ってくださるのでしょう。キリストのお語りになられた「わたしに来る者を拒みはしない」(ヨハネ6:37)とありますので、キリストを求めキリストのところへ行く人のところへ、主は来てくださるという。安息とは、キリストが共におられてはじめて得ることができます。キリストを拒むことなく、キリストを求め続けて、新しい一週間を過ごせるならば幸いです。

磯部豊喜