みことばの花 210126「目からうろこが落ちる」

みことばの花 210126「目からうろこが落ちる」

「するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。
そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。」(使徒9:18、19 口語訳)

キリスト教用語に「回心」という言葉があります。上記はパウロの回心の記録です。
迫害者サウロ(パウロ)は、イエス・キリストによって受け入れられました。
パウロは「十字架に架けられ死んだキリストが復活した」との噂をばらまく人々を邪教を信じる者と断定し憎んでいました。
その彼の思想はこのダマスコ途上で見事に崩れました。クリスチャンたちのメッセージが本当であったと体験したからです。
彼はここで二つの眼が開かれます。それは肉体の眼と、心の眼です。開眼という言葉がありますが、まさに「開眼」経験。
「目からうろこが落ちる」とは本来、彼のような回心を指す言葉なのでしょうか。
回心の証拠に、彼は水の中に沈めるという意味を持つバプテスマを受け、迫害者は一転しクリスチャンになりました。

磯部豊喜

みことばの花 210125「アナニヤ」

みことばの花 210125「アナニヤ」

「さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。
この人に主が幻の中に現れて、『アナニヤよ』とお呼びになった。彼は『主よ、わたしでございます』と答えた。」(使徒 9:10 口語訳)

アナニヤというクリスチャンが断食し祈るサウロ(パウロ)のもとを訪問し、サウロの上に手をおいて祈ります。
「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
アナニヤは、サウロの回心のために用いられた人でした。アナニヤはサウロがどんな人か知っていました(使徒9:13,14 口語訳 参照)。
ですが主の声を聞き説得されたアナニヤは、迫害者として名高いあのサウロに会いに行きます。
そして、目が見えなくなっていたサウロのために祈ります。
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44 口語訳)と教えられたキリストの精神がここにあります。

磯部豊喜

みことばの花 210124「不安のとき」

みことばの花 210124「不安のとき」

「さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう。」(使徒 9:6 口語訳)

サウロ(パウロ)の物語の続きです。パウロは、キリストの声を聴き、これから行くべき道が示されます。
彼は、先のまばゆい光のためにでしょう。目が見えなくなっていたようで、人々に手を引かれて、ダマスコに入ります。
「彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった」(使徒9:9 口語訳)とあります。
パウロがここでした行動は、いわゆる断食と祈り。彼は自分の身に起きたことを思いめぐらしていました。
「一体全体、あの出来事は何だったのか」「いま目が見えない。これから自分はどうなるのか…」不安が彼の心を包んでいたことでしょう。
人生の不安は内省の時。彼の沈思の時に、キリストは彼の知らぬところで働いておられました。

磯部豊喜

みことばの花 210123「光と声の正体」

みことばの花 210123「光と声の正体」

「彼は地に倒れたが、その時『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。」(使徒 9:4 口語訳)

まばゆく輝く天の光に触れたサウロ(後のパウロ)の耳に、一つの声が聞こえました。その声の第一声が上記の言葉です。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。一体だれを迫害しているというのか…。不思議に思ったサウロはその声に問いかけます。
「主よ、あなたは、どなたですか」。答えはこうでした。「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と。
サウロが迫害していたのは、イエスをキリスト(救い主)だと信じる人々でした。その声の主(ぬし)は、イエス・キリスト。
クリスチャンは、キリストと一心同体。それゆえにキリストは「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と一人称でお語りになります。
イエスは、クリスチャンを自分と等しい立場に見てくださる。なんという尊い言葉でしょうか。
キリストを持つ人は幸いです。毎土曜日は創造記念日、キリストにお会いする聖なる安息日です。
パッピーサバス!

磯部豊喜
・・・・・・・
1月23日(土)ライブ配信 URL です。※http://sda-chiba.org/ で過去のものを視聴できます。
安息日学校 URL 1月23日(土)10:00 聖書の学び(イザヤ―わが民を慰めよ)第4課「厳しい道」磯部豊喜
https://youtu.be/Py0mDkuCveY
礼拝説教  URL 1月23日(土)11:00 説教題「行って、あなたも同じようにしなさい」渡邊邦男(千葉教会長老)
https://youtu.be/hKaBQBTtBP4

みことばの花 210122「天からの光」

みことばの花 210122「天からの光」

「ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。」(使徒 9:3 口語訳)

「転機」という言葉があります。「天気」ではありません。
昔、英語学校の若者のキャンプで「私がどうして牧師になったのか」という「私の人生の転機、八百屋から牧師に」という内容のお話をしたことがありました。
英語学校ですから、外国人の教師もいます。通訳者が「転機」という言葉を辞書で調べ、「ターニングポイント」と訳しておられました。
上記は、サウロ(パウロ)の「ターニングポイント」なる聖句です。ダマスコ途上で、彼の前に「突然、天から光がさして、彼をめぐり照らした」という。
この時の体験についてパウロ自身の証があります。「王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました」(使徒26:14 口語訳)。
この「天からの光」…その直後に一つの声が届き、その声が彼の人生を変えます。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210121「殺害の息をはずませる人」

みことばの花 210121「殺害の息をはずませる人」

「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。
それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。」(使徒 9:1,2 口語訳)

迫害者パウロ(サウロ)の行動はますますエスカレートしていきます。ダマスコはエルサレムからは直線で測っても200キロは十分に超える遠方です。
そこにイエス・キリストを信じる者がいると分かったので、彼らを捕えるための許可をユダヤ教のトップリーダーであった大祭司に求めます。
彼のダマスコまでの長い道程は、クリスチャン殺害のための旅行。考えると実に恐ろしい。これが後にキリスト教を広めたパウロの過去の姿でした。
この途上で大きな出来事が起きます。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210120「教会を荒らし回った人」

みことばの花 210120「教会を荒らし回った人」

「信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。
ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。」(使徒 8:2,3 口語訳)

「無知」というのは時に恐ろしい行動をとるものです。パウロ(サウロ)は、とても熱い人でした。
間違っていると思うと、その相手を無き者にしようとするほどに熱く激しかった。「まあ、いいか」と曖昧には出来ない。
キリスト教徒が偽の教えを流布すると考えていましたので、この邪教を抹殺しなくてはと思い行動を起こしたのです。
こうして「教会を荒らし回った」人でした。この時のパウロの心境を彼自身が次のように書いています。
「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。
しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。」(Ⅰテモテ1:13)口語訳)と。
さて、パウロはどのような体験したのでしょう。明日に続きます。

磯部豊喜

みことばの花 210119「迫害者サウロ」

みことばの花 210119「迫害者サウロ」 

「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、…」(使徒 8:1 口語訳)

ここに「サウロ」と記された人がいますが、これはパウロのユダヤ名です。ステパノは敬虔なクリスチャンでした。
サウロは、このステパノを殺すことに賛成していた人、すなわちキリスト教の迫害者でした。
ステパノの最期の場面について「彼を市外に引き出して、石で打った。
これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた」(使徒7:58 口語訳)とあるみ言葉を見ますとサウロがステパノ殺害のリーダーであることが分かります。
サウロとして記されたパウロは当初、熱心なユダヤ教徒で十字架に架かって死んだナザレのイエスを信奉する者らを生かしてはおけないという立場にいました。
このような立場に生きていた人が、若き日のパウロでした。その彼が一転してキリスト教を広める人に変わったのにはそれなりの理由があるのです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210118「死ぬことは益?」 

みことばの花 210118「死ぬことは益?」 

「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」(ピリピ 1:21 口語訳)

パウロと言う人は、キリスト教を世に広めた第一人者です。この人がいなかったらキリストの教えの素晴らしさは、しっかりと確立されていなかったかも知れません。
このパウロが人生を豊かに送れた鍵は、「イエス・キリスト」そのお方に出会ったことにありました。
彼は上記の聖句を書いた人ですが、「わたしにとっては、生きることはキリスト」であると言い切っています。
そしてさらに「死ぬことは益である」とさえ語っています。
「生きることは益である」ならば分かりやすいのですが、「死ぬことは益である」とはどういうことなのでしょう。
自我に死ぬとか内面的な死を指すとも受けとれますが、実際の死(命を失う)さえも益であるとも解せます。
事実、パウロは死を恐れない心を持っていました。彼は体験していたのです。死の向こうにもっと素晴らしい命があることを。
どのような体験をしていたのか、明日に続きます。主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210117「永遠の命とは」

みことばの花 210117「永遠の命とは」

「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ 17:3 口語訳)

人の定め・・・生ある者は必ず死ぬということです。そして死に方は、それを望むが望まないが幾通りとある。
私の知っている某牧師は、「自分はがんで人生を終えたい」と語っていました。その理由は「死の前にいろいろと準備が出来るから」と語っていました。
確かに、不慮の事故などでは何もできずに終わってしまう。心残りが軽減されるという点ではがんも悪くないのかも知れません。
ですが死への備えの中で、希望に満ちた備えは、イエス・キリストを知り信じて死ぬことだと私は考えています。
上記の聖句には「永遠の命」があり、それに至る鍵が書かれています。
「永遠の命」があるかないかを信じるのは人の自由ですが、これを信じないで人生を終えるのはもったいない。
キリスト者の最後の合言葉は「また会いましょう」。「永遠の命」はあります。神の約束だからです。

磯部豊喜