みことばの花 210226「守る」

みことばの花 210226「守る」

「言われた『あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、
わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである』。」(出 15:26 口語訳)

「すべての定めを守る」ことがここに勧められています。
その守るべき「定め」には、「あなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け」という要素が含まれています。ある本に「守る」というのは「愛すること」とありました。
確かに家を守る人は、家を愛する。妻を守る人は妻を愛する。守るものを持っている人は幸いだと思います。
さてこれらに加えて主の定めを守る(愛する)人は、健康にも恵まれるとあります(これはエジプトを脱出したイスラエル人に約束された内容ではありますが…)。
心に覚えたい良い生き方だと思います。

磯部豊喜

みことばの花 210224「あなたはここで」

みことばの花 210224「あなたはここで」

「その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、『エリヤよ、あなたはここで何をしているのか』。」(列王上 19:9 口語訳) 

今日も神に問いかけられた人の話です。
エリヤは主の預言者でした。王の前に毅然と立つ勇気ある預言者でしたが、今彼は外的な圧迫に押しつぶされ、落胆し自暴自棄に陥っていました。
いわゆる鬱状態になっていた。その状態の只中で、彼は心に語りかけられる主の言葉を聞くのです。
「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。これは聖書に登場する大昔の話ですが、今の私たちにも同様に主が語りかけられることがあります。
落ち込むとき、「磯部よ、あなたはここで何をしているのか」とその御声は問いかけて来ます。
「もう何もしたくないのです」とか「人生に疲れたのです」とか語りたくなることがあります。
そのようなとき、ここでエリヤに語りかけられた主の言葉を思い出したい。
人に関心を寄せられる主の言葉をかみしめたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 210223「人生からの問い」

みことばの花 210223「人生からの問い」

「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』。」(創世記 3:9 口語訳)

上記は神から離れた人に、神が問いかけられた場面です。
ナチスの悪名高いアウシュビッツ収容所を生き抜いたフランクルという精神科医は、「『もう人生から期待するものは何もない』ことを見出した人は絶望のうちに失われていく」と語り、続けて「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。
すなわちわたしたちは人生に何を期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわたしたちに期待しているかが問題なのである」と問いかけています。
この問いは、「神からの問い」と言い換えることができそうです。
「あなたはどこにいるのか」と主は問いかけられます。
これは人類祖先アダムに語りかけられた神のみ言葉ですが、ときどき私にも語りかけられる言葉にも聞こえるのです。
「あなたはどこにいるのか。」

磯部豊喜

みことばの花 210221「至高なるお方」 

みことばの花 210221「至高なるお方」 

「それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」(ピリピ 2:10、11 口語訳)

絶対者という言葉があります。絶対者というのは「何物にも制約されずに存在し、一切の根本とされるもの」と辞書にあります。
この世の中に絶対者と呼ばれる者がいるとすれば、それは神と呼ばれるべきお方です。
この方は、神ですから当然、病気など、悩んだりすることはない。
人間は、どんなに崇高な思想と強健な体力を持っていたとしても、どんぐりの背比べです。
ところが聖書には、神と等しい方としてイエス・キリストのことが紹介されています。
上記は、まさにこのお方が絶対者であるがゆえに、「あらゆるものがひざをかがめ、
また、あらゆる舌が、イエス・キリストは主である」と告白しているというのです。
この世界にこのような目で見つめられる人が他にいるでしょうか。
至高なるお方を見上げて今日も過ごしましょう。
主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210220「岩はキリスト」 

みことばの花 210220「岩はキリスト」 

「聖書にこう書いてある、/『見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。
それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない』。」(Ⅰペテロ2:6 口語訳)

昨日、「人生砂漠にも、心の渇きをいやす水がある。キリストという岩がそれです」と書きました。
人生砂漠に流れる岩の水が神の御子キリストであると新約聖書の記者は解釈しています。
上記の聖句に、「この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、
不信仰な人々には『家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの』、」(同2:7 口語訳)と続きます。
この「隅のかしら石」はイエス・キリストを指しています。
私どもの人生に、真のいのちと深い愛、永遠の命の希望をイエス・キリストは与えてくださいます。
重篤な病のとき、キリストは私の傍にいてくださいます。そして私と共に泣いてくださいます。私と共に悲しんでくださいます。
そればかりではない、新しい道を示してくださいます。主はわたしの心身の癒し主です。
今日もライブ放送を覗いてください。主の恵みに触れてください。
心身に天来の安息を!ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 210219「人生砂漠」

みことばの花 210219「人生砂漠」

「主が彼らを導いて、さばくを通らせられたとき、彼らは、かわいたことがなかった。
主は彼らのために岩から水を流れさせ、また岩を裂かれると、水がほとばしり出た。」(イザヤ 48:21 口語訳)

古い讃美歌に「ゆけどもゆけどもただ砂原、道なきところをひとりたどる…」という暗い歌詞で始まるものがあります。
ですがこの讃美歌には続きがあります。「ささやくごとくに、み声きこゆ、疲れしわが友、われにきたれ」。
ある人は「人生は砂漠だ」と語る。砂漠をさ迷って辛いのは、水がないこと。昔イスラエルの60万以上の民は、エジプトを出立してから荒野をさ迷いました。
途中で水が絶えた時があります。そのとき、何とモーセが岩を杖で叩いたところその岩から水がほとばしり出た(出17:6 口語訳)。
イスラエル人の道程をたどると、一つの上下に裂けている岩に出会います。
これが例の岩ではないかと聖書考古学者たちは考えています。石の下には水の浸食がみられるからです。
神は不思議を名とするお方。人生砂漠にも、心の渇きをいやす水があります。キリストという岩がそれです。
今日も主の恵みがりますように。

磯部豊喜

みことばの花 210218「アーメンたるお方」

みことばの花 210218「アーメンたるお方」

「これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」(黙示録 22:20 口語訳)

「アーメン、ソーメン、冷ソーメン」などと子供の頃に遊び心で語っていた言葉を、いつの日にか祈りの後に付け加えている自分がいます。
クリスチャンは祈りの後に、「アーメン」と言います。
その意味は「まことに」とか「真実に」ですが、これを心を込めて言えるようになるのが不思議です。
私どもの会話でも、「はい!」と返事をします。いつから身に着けたことでしょう。「アーメン」も同様です。
教会で人が祈る時、慣れないと「アーメン」は言いにくい。中にはすぐにスーと言える人もいますが、すごいと思います…。
わたしはそうではなかった。でも今は言える。牧師ですから当然なのですが…。
神は「アーメンたる」お方です。

磯部豊喜

みことばの花 210217「人間の努力+α(祈り)」

みことばの花 210217「人間の努力+α(祈り)」

「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(箴言16:3 口語訳)

私は何でもかんでも「神様に祈りさえすれば…」と言う言葉は嫌いです。人間には果たすべき分というものもあります。
例えてみると、受験。勉強もしないで受験をし、祈りをささげて解答用紙に向かう。これでは絶対に受かるはずはない。
祈りは、怠け者を導くマジックではありません。不断の努力をしている人が、祈りを加える時に結果がついてくるものです。
人は精一杯努力をしても不安が襲ってくる時があります。このような時に、祈りを加えてみる。
そうしますと主は、私の傍にいて私を応援してくださいます。努力をして学んだことを、思い浮かばせてくださいます。
また何かに挑戦する時にも、アイデアを浮かべさせて下さるかも知れません。
上記の聖句は努力している人に当てはまるみ言葉だと私は受け止めています。
努力をしても人には限界があります。
そこで「なすべき事を主にゆだねる」、これが大切な気がします。

磯部豊喜

みことばの花 210216「あなたの荷を」

みことばの花 210216「あなたの荷を」

「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」(詩篇 55:22 口語訳)

人はいろいろな荷物を背負って生活しています。
ある人にとってその荷物があまりにも重くのしかかっていると感じるために、自ら命を断つ人が後を絶ちません。
この荷を支えるにはどうすればよいのかを考えてみました。一つは、荷物を分散して背負う。二つは、この荷物に耐え得る自分の足腰を鍛えること。
しかしこれらは理屈の話で、実際には難しい。
ある人の夢の話ですが偉い儒教の先生が登場し、深い穴に落ちた人に向かって「足腰を鍛錬して出て来なさい」と言ったという。
ですが、これは難しい。ではどうすれば荷に押しつぶされずに生きられるのか。そのヒントが上記の聖句にあります。
「あなたの荷を主にゆだねよ」。「神様、この僕の重荷は重くて負いきれません。どうか助けてください。」と本気で祈ってみる。
私はこの祈りで何度も救われました。
主は私の荷を背負ってくださいます。

磯部豊喜

みことばの花 210215「恐れることはない」

みことばの花 210215「恐れることはない」

「エリシャは言った、『恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから』。」(列王下 6:16 口語訳)

1対10とか、10対100などという組み合わせはどう考えても勝ち目のないものです。
こちらは少数で敵は大軍…こういう立場に置かれたなら厳しいものがあります。
しかしたとえ少数でも、もし私どもが正しい側にいるならば、「恐れることはない」とある。
正しい側にとって上記の聖句は、力強い味方です。
「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多い」。
上記は、小国イスラエルに対し大国シリヤ(アラム)の大軍が攻めてきた時に、預言者エリシャの語った言葉です。
このときイスラエル側に、火の車と火の戦車が山に満ちていたという。
この戦いの結末は、戦わずしてイスラエルが勝利します。
要は私がどちら側にいるかということです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜