みことばの 210214「激しい地震」

みことばの 210214「激しい地震」

「すると、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが起り、また激しい地震があった。
それは人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった。」(黙示録 16:18 口語訳)

昨日、大きな揺れが東北を中心に起きました。
直下型ではなく震度6という横揺れの地震でしたので、10年前のような大きな被害は出ていないようですが、停電になっている家屋が多く寒さの中で心配です。
私は入浴中でしたので少し困りましたが、大きな揺れを感じて思わず湯船の中で祈りました。30秒ぐらいの揺れはやがて静まりました。
さて上記は、世界の終りに起きるとされる大地震の予告。「人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった」とあります。
聖書の預言は、未来の出来事でも確実に起こるゆえ未来完了形で表現されます。このような激しい地震に遭遇したらどうすれば良いのでしょう。
その対処の仕方は、ただ一つ。それは慌てずに祈る事だと思います。
「信じる者はあわてることはない」(イザヤ28:16 口語訳)との聖句を心に刻みたい。

磯部豊喜

みことばの花 210213「思いがけない時に」

みことばの花 210213「思いがけない時に」

「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイ24:44 口語訳)

未だに収束をみない新型コロナ。不思議なことに私が直接に出会っている人々の中に感染者は見かけません。
そのゆえにでしょうか。私にとって新型コロナは対岸の火事のようなものです。ですが、徐々に身近な所へ土足で迫ってきているのかも知れません。
ニュースなどで最近は、陽性になった人がTVに紹介されたりしますが、異口同音に「新型コロナを甘くみていました」という。
今一度、予防の原点に返ってみる必要があるようです。手指の消毒、マスクの着用、お互いの距離を保つこと。会食はNG。彼は「思いがけない時に」来る。
聖書の中に記されたもので「思いがけない時に」の出来事はキリストの再臨にも当てはまります。
「思いがけない時に人の子が来るからである」という聖書の御言葉を、心に覚えたい。
この日が、私の人生にとって最大の喜びの訪れとなる人は幸いです。
ハッピーサバス!

磯部豊喜
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みことばの花 210212「わが幸福のため」

みことばの花 210212「わが幸福のため」

「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後に捨てられたからである。」(イザヤ 38:17 口語訳)

上記は旧約聖書イザヤ書に登場する、南王国ユダの王であったヒゼキヤの言葉の一節です。ヒゼキヤ王は、重い病に侵されていました。
ところが涙と共に神に祈りをささげたとき、特別にその願いが受け入れられて15年ほど人生を続けることが出来ました。
彼は今でいう「皮膚がん」だったのかも知れませんが、死にかけていたのです。
彼の国は強力な軍隊を持つ敵に攻められていましたし、自身の体調もすぐれなかったのです。苦しみの渦中に置かれた。
でも彼の祈りは、この両者に克服する道を開きました。苦しみと自分では自分が敗北します。
ですが苦しみと自分の間に神を置いた時、すべて解決しました。
「主は勝利者である」という事実は揺らぐことはありません。

磯部豊喜

みことばの花 210211「忘れてはならないこと」

みことばの花 210211「忘れてはならないこと」

「その時、あなたはみずから慎み、エジプトの地、奴隷の家から導き出された主を忘れてはならない。」(申命記 6:12 口語訳)

昨日の続きになりますが、イスラエルの人々のつぶやきの原因の一つは、感謝することを忘れてしまったことです。
自己中心的な人の最大の欠点は、他からしてもらったことをすぐに忘れることです。世には忘れてよいものと忘れてはならないものがあります。
人から受けた仕打、これは忘れたい。覚えていると恨みや憎しみが心に育つ。また自分が人にしてあげたことを心にとめないが良い。
自慢や不満の種になるからです。しかし決して忘れてはならないこと。それは感謝の心です。あの方のお陰で今こうしていられること。
感謝を忘れなければ、心は平安に満たされるに違いないでしょう。不満の種を拾い集めるよりも、感謝の種を拾い集めるのです。
特に、今日も新鮮な空気を吸える。今日も心臓が動いている。今日も食物がある…。
これらは控えめな神の御業。「神様ありがとう!」と賛美して一日を始めたい。
そうすればきっといいことがあると私は信じています。

磯部豊喜

みことばの花 210211「忘れてはならないこと」

みことばの花 210211「忘れてはならないこと」

「その時、あなたはみずから慎み、エジプトの地、奴隷の家から導き出された主を忘れてはならない。」(申命記 6:12 口語訳)

昨日の続きになりますが、イスラエルの人々のつぶやきの原因の一つは、感謝することを忘れてしまったことです。
自己中心的な人の最大の欠点は、他からしてもらったことをすぐに忘れることです。
世には忘れてよいものと忘れてはならないものがあります。
人から受けた仕打、これは忘れたい。覚えていると恨みや憎しみが心に育つ。また自分が人にしてあげたことを心にとめないが良い。自慢や不満の種になるからです。
しかし決して忘れてはならないこと。それは感謝の心です。あの方のお陰で今こうしていられること。感謝を忘れなければ、心は平安に満たされるに違いないでしょう。
不満の種を拾い集めるよりも、感謝の種を拾い集めるのです。
特に、今日も新鮮な空気を吸える。今日も心臓が動いている。今日も食物がある…。これらは控えめな神の御業。
「神様ありがとう!」と賛美して一日を始めたい。
そうすればきっといいことがあると私は信じています。

磯部豊喜

みことばの花 210210「つぶやく」 

みことばの花 210210「つぶやく」 

「その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。」(出 16:2 口語訳)

出エジプト記16章は、モーセの導きによってイスラエル民族がエジプト奴隷から解放されたエジプト脱出の直後の記録です。
彼らは追ってきたエジプト軍の前におののきましたが、目前の海が開けて海の底をわたって救われました。
「そんなあり得ない」事と思われる話ですが、これは事実の物語。海の底にはエジプト軍の戦車の残骸があることを見ても明らかです。
ところで、このような奇跡を体験しても、人の心はすぐに不信仰になる。イスラエル人は、彼らの指導者モーセとアロンにつぶやいたのです。
エジプトでは奴隷ではあったが食べ物が豊富だったというのがその理由。つぶやく理由になるだろうか。
奴隷から解放されたことを感謝すればよいのに…人は目先のことでつぶやくようです。
感謝の種をもっと心に集めたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 210209「人をさばくな」

みことばの花 210209「人をさばくな」

「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。
そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」(ルカ 6:37 口語訳)

人の心を不安定にするものの一つ。それは「さばく」ことです。さばく人の心には安定感がない。
しかし人という者は悲しいかな「人をさばきたくなる」傾向を持っていないだろうか。
「さばかれる」側も同様の「さばき」の心をもって相手にリベンジしたくなる。これが民同士とか国同士になると戦争に発展するのです。
平和な心とは、「さばく」ことをしない心。攻める矛先を人に向けるのでなく、自分の内面に向けてみる。自分も同じことをしていないかと自問するのです。
矛を自分に向ける、そうすれば自分は可愛いので、さばきの手を休めることができるかも知れません。
さて、キリストは「人をさばくな」とか「人を罪に定めるな」と教えられます。
「他人をさばく」ことは実は「自分をさばく」ことに他ならないというのです。
解決先は「ゆるす」以外にない。人をゆるすことは自分もゆるされる保証となる。
心の平安がそのご褒美。
今日、主の平安が私を包みますように。

磯部豊喜

みことばの花 210208「やさしい言葉」

みことばの花 210208「やさしい言葉」

「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。」(コロサイ 4:6 口語訳)

一昨日の新聞にこのような内容(実名は伏せてMさんにしました)の記事が載っていました。「大阪市の中学生のMさんは、テストで書き違いをした。
『肥満』のつもりがなぜか『脂満』に。しょげて話すと、兄が『その方が正解っぽいやん!』。父は父で『おとうさんのお腹は脂に満たされているぞ』。
家族の笑いに救われた」…こういう言葉のやりとりっていいなあとこの記事を読んで思いました。
何か、温かみを感じます。言葉の奥に家族の優しさが流れています。
暗いことに出会い、へこむことの多い人生かも知れませんが、こういう言葉の掛け合いが出来たらいいですね。
上記の聖句のように「やさしい言葉」を語れたらと、私も願うのです。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210207「忍耐」

みことばの花 210207「忍耐」

「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。」(詩篇 37:7 口語訳)

「なるぬ堪忍するが堪忍」という言葉があります。
「これ以上、がまんできないというギリギリの限界をじっと耐えることこそが、真の堪忍というもの」、という意味だそうです。
そうなると「堪忍袋の緒が切れる」というのは、もう堪忍ではないということになります。
昨日、礼拝説教の中で私は、後ろ向きの忍耐と前向きに忍耐があるのでは投げかけました。
ただ我慢するという生き方は、いつか爆発する可能性があるので後ろ向きの忍耐と表現しました。
ですが前向きな忍耐は、忍耐を楽しむ生き方。しかしこれは生身の人間では難しい。上記の聖句には、「主の前にもだし(黙して)、耐え忍びて主を待ち望め」とある。
前向きな忍耐は、主が最善に導かれると信じ黙して待つのです。
今週も主の支えがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210206「間違い」

みことばの花 210206「間違い」

「人々は『あなたは気が狂っている』と言ったが、彼女は自分の言うことに間違いはないと、言い張った。
そこで彼らは『それでは、ペテロの御使だろう』と言った。」(使徒12:15 口語訳)

「自分の言うことに間違いはない」と言える人は幸いです。実は今週、調べ物をしていて私の話に間違いがあったことを発見。
何かといいますと、米国大統領にルーズベルトという人が二人いたことを知ったのです。
私はルーズベルトと名の付く大統領は一人だと思い込んでいました。ところが事実は二人のルーズベルトがいました。
第25代大統領のセオドア・ルーズベルトと第32代のフランクリン・ルーズベルト。この二人は遠縁の「いとこ」でした。
セオドア・ルーズベルトは、ノーベル平和賞を授与されたルーズベルト。後者のフランクリン・ルーズベルトは、日本と戦った時の大統領でした。
それとは知らず、先週のライブ配信で「ノーベル平和賞を授与されたルーズベルトが日米間戦にもかかわった」と語ってしまいました。
時々、このような失敗をしてしまいます。この間違いは直ちに修正したいと思います。
明日のライブもどうぞ。
ハッピーサバス!

磯部豊喜
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2月06日(土)ライブ配信 URL を送ります。
安息日学校 URL 2月06日(土)10:00 聖書の学び(イザヤーわが民をなぐさめよ)第6課「神を演じる」磯部豊喜
https://youtu.be/GGW0mL2oP0g
礼拝説教  URL 2月06日(土)11:00 説教題「ヨブの忍耐」磯部豊喜
https://youtu.be/VJM8A19qQBU