みことばの花 210308「感動」

みことばの花 210308「感動」

「祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである」(マルコ 11:18 口語訳)

人はどういうときに感動するのでしょう。
予想していたことのレベルを超えていること、あるいは予想もしていなかった出来事に触れたり味わう時に感動するのではないかと思います。
私はかつて自暴自棄に陥っていた時がありました。
自分は実に罪深く、とてつもなく悪い人間だ…と心が落ち込んだことがありました(今でも自分の至らなさに落ち込むことはある…)。
そのような時、「あなたの罪は赦されているよ」という主の御声に触れました。そのときとても感動しました。
「えっ、こんな私でも…ですか」。その日以来、キリストが大好きになりました。
上記はイエスの教えのすばらしさを語っている場面です。キリストの教えは温かく、心を開いて聞く人を感動させます。
キリストの御言葉は愛の言葉、どうぞ主の愛の言葉に触れ続けてください。
主の愛が今日も迫ってきますように。

磯部豊喜

みことばの花 210307「自分の目」

みことばの花 210307「自分の目」

「人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。」(箴言 21:2口語訳) 

みことばの花210307「自分の目」
「人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。」(箴言 21:2)
最近、私は足をいろいろな所へぶつけて「痛っ」と悲鳴をあげることしばしばです。
七十路が近くなってきているからであろうか・・・などと考えたりもしますが、結局、これは自分の目測ミスに他ならない。
「この足の運びで大丈夫」という感覚と実際が異なっているのです。
さて、この私の目測の誤りは、人生の道についてもいえるかも知れません。
例えば聖書はこれこれ言っているけれど、私はこう考える。このような自分の目は、人生の道を踏み外す可能性が大きい。
私はこう思うけれど、「まずは神の言葉に聞いてみよう、従ってみよう」と選択したい。そうすれば人生の道は必ず開けるに違いない。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6 口語訳)と主は言われました。
主の道は何ですか?と今日も、祈りつつスタートしたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 210306「神の忍耐」

みことばの花 210306「神の忍耐」

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。
ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(Ⅱペテロ 3:9 口語訳)

キリストは「わたしは来る」と言われてから二千年もの期間が過ぎました。その理由は一つ。「ひとりも滅びることがなく」のためです。
ですが現実は滅びる人が多い。私は古い讃美歌の次の一節を思います。
「なさけ知らぬ罪びとの、心にもやどるなり、母のおもわ、神の愛、ここにこそ救いあれ。ひとりだにも滅ぶるは、みむねならじ、たすけよ。」
今日の安息日説教題は「母のおもわ神の愛」としました。
ハッピーサバス!
磯部豊喜

・・・・・・・
本日、3月06日(土)ライブ配信 URLです。
安息日学校 URL 3月06日(土)10:00 聖書の学び(わが民を慰めよ)第10課「『信じえないこと』を行う」磯部豊喜
https://youtu.be/yEu2esCqAWU
礼拝説教  URL 3月06日(土) 11:00 説教題「母のおもわ神の愛」磯部豊喜
https://youtu.be/ylzDzcA0GvU

みことばの花 210305「メラの水」

みことばの花 210305「メラの水」

「彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。」(出エジプト15:23 口語訳)

新聞に新型コロナウイルスに感染して嗅覚・味覚障害が起きた人の姿が記載されていました。
目を閉じて食べると「ピザかパスタかパンかわからない」。この程度ならまだしも「コーヒーはガソリン、肉は金属のような味がする。
さらに排泄物は良い香り、水道水は臭くてシャワーを浴びるのが嫌になる」。嗅覚・味覚は大切です。
さて上記はメラ(新共同訳聖書ではマラ)の水のことが記されています。「メラの水は苦くて飲むことができなかった」とある。
はじめは名のない場所。水が苦い場所だったのでメラ(苦い)と名づけられた。
これがもし新型コロナの人がこの水を味わったらどうなる?蜂蜜のように感じて飲んだら、腹痛を起こしかねない。
この話は、人々の叫びを受けたモーセの祈りに応えて、神が示された一本の木をそこに投げ込むと「甘くなった」という。
この一本の木は、神の憐れみを表徴する。苦い人生を甘い人生に変える力を持った神の愛を教えているのです。

磯部豊喜

みことばの花 210304「何が大切か」 

みことばの花 210304「何が大切か」 

「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。」(ローマ 10:1 口語訳)

上記の御言葉に続き、この聖書の著者パウロは「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、
その熱心は深い知識によるものではない。」と書いています。
「熱心」という言葉は魅力的な言葉ですが、熱心は度を越すと真に大切なものを見失うことがあります。
サインズ誌に、健康志向に目覚めた著者の失敗談が書かれていました。
健康に熱心ゆえ、家族に「あれは健康にだめ、これは身体に悪い」と熱心に講じていた著者。
その勢いに押されて、夫も子供たちの顔からも笑顔が消えていったという。
著者はその様子をみて、自分の押し売り熱心さの問題点にハタと気づいたという。
自分が本当に望んでいたのは、家族の笑顔を見たかったはずなのだ。
しかし「こうあらねばならない」と押し付けて、大切なものが抜けてしまっていた…と。
自分の熱心以上に大切なものがある。
上記の聖句では「彼らが救われること」。
一番大切なことは何かを見極める知識を得たいものです。

磯部豊喜

みことばの花 210303「恥ずかしい」

みことばの花 210303「恥ずかしい」

「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」(創世記2:25 口語訳)

つい先日、BS配線をすることでテレビよりユーチューブを見ることができることを知りました。
これをいじっている時のこと、何とその画像の中で忽然と私の動画が現れました。とてもびっくりしました。
そして恥ずかしい気持ちになりましたが、それは礼拝説教のライブ配信で、説教題は「私は夢をみる」。
ライブ放送を始めた初期の頃のものでしたので、カメラの位置も顔に近く、
しかも緊張丸出しの「下手くそ説教(内容こそはそんなに悪くないと思いましたが…)」。もはや映ってしまっているのは仕方がない。
腹をくくり、この未熟なメッセージを通してでも、これを開いて視聴された方が聖書に触れて頂くきっかけにでもなれば良し…と思えるようになりました。
さて上記は、人類祖先アダムとエバが罪を犯していない時の様子を描いています。
純粋無垢な二人は、「恥ずかしいとは思わなかった」とあります。
罪のない姿とは、この時のアダムとエバのように「恥ずかしいとは思わなかった」姿なのでしょう。
恥ずかしくない生き方が出来たならば、素晴らしいことだと思います。

磯部豊喜

みことばの花 210302「永遠の命とは」

みことばの花 210302「永遠の命とは」

「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ 17:3 口語訳)

歌手、俳優の吉川晃司(55)さんが2月16日に都内の病院で心臓の手術を受けていたことがつい先日、報道されました。
心臓の表面にある冠動脈の狭窄(きょうさく)が見つかり「狭心症」と診断。
このままでは心筋梗塞を発症する可能性が高く緊急の治療が必要とのことで入院されました。
映画「チーム・バチスタの栄光」(2008年)で演技指導を受け、その後も親交があった腕利き心臓外科医の下で結成された治療チームによる手術「冠動脈ステント留置術」が無事成功し、経過も順調だとのこと。…こういうめぐり合わせもあるのだと驚きました。
吉川さんは「自分は運がいい」と語っているそうです。
吉川さんの言葉を借りれば私も同様に、いえそれ以上に運が良い。神の御子イエス・キリストを知っているのですから。
多くの人々に「たとえ死んでも生きる」と言われ、「永遠の命」を与えてくださるイエス・キリストを知ってほしいと私は強く願うのです。

磯部豊喜

みことばの 210301「平安を残す」

みことばの 210301「平安を残す」

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」(ヨハネ 14:27 口語訳)

上記に私の心を引きつける言葉があります。それは「わたしは平安を」とか「わたしの平安を」という言葉。
「は」「の」の部分だけが違います。キリストはキリストご自身の中にある平安の提供者であることを指します。
人は持ち合わせていないものは提供できない。「キリストの平安」はどのような内容の平安なのでしょう。
私の理解では、キリストの平安とは、嵐の只中における平安。周りは嵐が吹き荒れている。
ですが神の愛と守りを見つめているゆえ、穏やかな平安です。このような平安をキリストは私に残そうといわれます。
主の平安がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210228「神にそむく偽証人」

みことばの花 210228「神にそむく偽証人」

「すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。」(Ⅰコリント15:15 口語訳)

昨日、私は「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。」(イザヤ45:22 口語訳)を主題聖句とする説教を語りました。
この聖句と向き合っているうちに、完成したのが死からよみがえったイエス・キリストを語ること。
この聖句を紹介することは週初めに決めていたことでしたが、当初は別の話の展開を考えていたのです。
ところがいざ準備のふたを開けると、キリストの復活を語るように導かれました。
イエス・キリストが死からよみがえられたことは聖書に記録された自明の事実です。
上記はキリストの復活をその目で目撃したパウロの言葉です。
その体験ゆえキリストの復活を否定するならば、それは「神にそむく偽証人」になると彼は断言するのです。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 1027「復活信仰」

みことばの花 1027「復活信仰」

「もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。」(マタイ 28:6 口語訳)

聖書が伝える内容で特質すべきことは、イエス・キリストが死からよみがえって今も生きておられるということです。
キリスト教会では、神を礼拝しますが、それはイエス・キリストへの礼拝でもあります。
なぜイエス・キリストを礼拝するのかというと、それはイエス・キリストが復活の神であり今も生きておられるゆえです。
死んで墓の中に納められている者を礼拝しても何の意味もありません。
死者に祈ったところで、その祈りは届くはずはないでしょう。死人には知情意は存在しない。
しかし、イエス・キリストは十字架にかかって死なれましたが、同時に確かによみがえり今も生きておられる。
これは聖書の教えの根幹です。「主はよみがえられた」はキリスト者の合言葉です。
ハッピーサバス!

磯部豊喜