みことばの花 191121「心配を追い出すもの」

みことばの花 191121「心配を追い出すもの」

「彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、
『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。』」
(マタイ 1:20 口語訳)

上記の聖句を読んでいて、思い出した言葉があります。
それは「心配がはいると信仰が出て行き、信仰がはいると心配が出て行く」という言葉です。
「心配」とは生来の私の心に生じるものです。
一方、「信仰」はキリストを信じる私の心にキリストが注入してくださるものです。
上記の「彼」とはマリヤを妻として迎えたヨセフのことです。
婚約者ヨセフは、後に妻となるべき女性の懐妊を知り、戸惑いを隠しきれませんでした。
その時、神様は天使を遣わして、上記のようにその真相をヨセフに語りました。
信仰が注入されたヨセフは、安心してマリヤを妻として迎え入れました。
信仰は心配を追い出すのです。
今日も主の平安がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 191120「壁」

みことばの花 191120「壁」

「…戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」(ヨハネ20:26 口語訳)

30年前の11月9日ベルリンの壁が崩壊したこと知りました。
壁というものに良いイメージを抱くことは少ないと思います。
メキシコと米国の壁もそうです。人はやたらと壁を作りたがります。
ところで上記の聖句は、キリストが壁(ここではドア)をすり抜けて、部屋の中に立ち「安かれ」と語られたという記録です。
ここに心の壁がなくなると、平和が訪れるという教訓が隠されているような気がするのです。
今日も主の平和がわたしの心にありますように。

磯部豊喜

みことばの花191119「自慢2」

みことばの花191119「自慢2」

「…愛は自慢せず、高ぶらない。」(Ⅰコリント 13:4/新共同訳)

(昨日の夢の続きです)。
ところで生徒の見ている前に細い道があり、右側に深い池があった。
そこに足元のおぼつかないS校長先生がすべって落ちてしまったのです。
全身が水中に入り見えなくなった。誰も水の中に入ろうとしない。
そこで私は飛び込み、S校長先生を無事に救出するのですが、
子供たちの前での出来事ゆえ、少しばかり「自慢」の思いが頭をもたげるのです。
目覚めて後、私は自分の姿を教えられたのです。
そもそもS校長先生を先に行かせて一人で歩かせた私に問題があった。
なぜ脳梗塞の後遺症に置かれているS校長先生の足を支えるように手をとって歩かなかったのか。
私は大事な式に綿パンを身につけていること以上に、自分の心の中にある綿パンに気づいていなかったのです。
この夢は実に「愛は自慢せず、愛は高ぶらない」とある聖句を私の心に刻むものとなりました。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 191118「自慢」

みことばの花 191118「自慢」

「…愛は自慢せず、高ぶらない。」(Ⅰコリント 13:4/新共同訳) 

今朝、はっきりと思い出せる夢を見ました。
こんな内容です。夢の舞台は、私が再び三育小のチャプレンに返り咲いて新入生を迎えるという場面でした。
そこにS先生という素敵な校長先生がおられるのですが、脳梗塞を患いその後遺症のために足がおぼつかない姿でした。
その校長先生は新入生を迎えるにあたり牧師でありチャプレンである新任の私に敬意を表し、先頭で歩かせようとするのです。
ところが私はその日、背広を着ておらず上着こそはワイシャツなのですがズボンは白い綿パンを身に着けている。
とても先頭を歩くには恥ずかしい。それで遠慮して、「校長先生こそが先頭を歩くべきです」と引き下がります。
内容は謙譲の言葉。
ですが恥をかきたくないというのが私の本音。…(この夢の続きは明日に)

磯部豊喜

みことばの花 191117「命の木」

みことばの花 191117「命の木」

「都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。」
(黙示録22:2 口語訳)

ここに「命の木」という言葉が出てきます。
この「命の木」は天地創造時に地球に置かれていました。
しかもこれは不老長寿の木であったと思われます(創世記3:22参照 口語訳)。
昔、秦の始皇帝は不老長寿の薬を求めていましたが、創世記を読んでいたら「いのちの木」のことを知ったことでしょう。
心から主イエスを信じ、主とつながる生活するならば、天において「命の木」を食べ不老長寿生活に入れるとみ言葉は約束します。

磯部豊喜

みことばの花 191116「いのちの水」

みことばの花 191116「いのちの水」

「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、」
(黙示録22:1 口語訳) 

上記は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである」との前置きがある黙示録最後の章の1節です。
この聖句には二つのポイントがあります。第一は神と小羊(=キリストのこと)の御座(玉座)があります。
第二はそのから「水晶のように輝く命の水の川が流れています。
ここで注目したいのは、「いのちの水の川」が「神と小羊の御座(玉座)」を水源としているということです。
「命」あふれるところには常に「神とキリスト」がおられます。
ここで覚えておきたいこと、それは私の「今の命」も「将来の命」も「神とキリスト」から流れ出るものだということです。
今日は第七日安息日、「いのちの水」を「神とキリスト」から求めたいと思います。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 191115「菜食生活」

みことばの花 191115「菜食生活」

「野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる。」(箴言 15:17 口語訳)

新聞に「宮沢賢治が菜食主義者になったのは、動物の命をだいじにする気持ちがあったからだ。
…賢治によると菜食主義の精神はもう一つ、『予防派』というのがある。病気予防になると考え、動物性たんぱく質をとらない人たちで、いわゆる健康志向か。」という一文が載っていました。
さて、上記の聖句は菜食によって心が穏やかになれるとも読めます。
聖書を読んでいて、私が菜食中心の生活を勧めたい理由の一つは、天国の住民は人であれ動物であれ菜食であるということです。
天国の「オオカミと小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ」(イザヤ65:25/新共同訳)とあります。
菜食生活は天国住民への備えにもなると思えるのです。

磯部豊喜

みことばの花 191114「富める青年⑩」

みことばの花 191114「富める青年⑩」

「イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。」
(ルカ 18:24 口語訳)

これは「富める青年」が去って後、キリストが弟子たちに言われた言葉です。
この青年が去ったことは、キリストの失敗だったのではという人がいます。
しかしこの物語は「キリストの失敗ではなく、青年の失敗」だと私は受け止めます。
キリストは「彼を見つめ、慈しんで」(マルコ10:21 口語訳)青年との会話を持たれました。
この青年のような立場に置かれると人はキリストの提案を選ぶよりも、自分の価値観を選ぶのではないかと思います。
ですがこれが奉仕への道、信仰への道の妨げになる。
人にとって一番捨てがたいものは「自分の欲」。
この青年の場合は「財産欲」。
この財産は、そもそも神によって管理者として私に任せられたものだと解釈出来れば、違う選択ができるのではと思います。
「すべて私のもの」と考えるところに、人生の失敗があるように私には思えるのです。

磯部豊喜