みことばの花 190914「神の小羊」

みことばの花190914「神の小羊」

「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」(ヨハネ 1:29 口語訳)

「罪のゆるし」と「血が流される」ことは深く結び付いています。
血は命そのものです。
旧約聖書には「人の罪をゆるす」ために動物(特に小羊)を屠って、血を流すと言う儀式がありました。
このような儀式は何を意味していたのでしょう。
これを明らかにするのが上記のみ言葉です。
ヨハネは、神の御子イエスを見つめて「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。
旧約聖書の「動物の犠牲の血」が象徴していたのは、実は十字架に架けられ血を流して命を投げ捨てられる神の御子イエス・キリストであるということをヨハネは知っていました。
キリストが「世の罪を取り除く小羊」となってこの世に来られ、十字架の上で「血を流して」死なれる…
そこに全人類の「罪のゆるし」があると彼は受け止めていたのです。
今日は第七日安息日、十字架に架かられた救い主を礼拝したいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 190913「罪の許し」

みことばの花 190913「罪の許し」

「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。
血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」(ヘブル 9:22 口語訳) 

日本古来の宗教とされる神道(しんとう)は、しばしば「水の宗教」と言われます。
「罪やけがれをなくすために、川に行って水で体を洗い清める禊(みそぎ)」というものがあります。
実は聖書にも洗礼(バプテスマ)という、罪の許しを得るための悔い改めの儀式があります(使徒2:38 口語訳)。
ですが聖書は、それと共に、いえそれ以上に「水」よりも「血」を重視します。
「血を流す」ことによって「罪が許される」という。
血は命を象徴しており、キリスト登場前には人の罪をゆるすものとして動物の血(命)が流されて来ました。
この動物の血(命)は何を意味していたのでしょう。
明日に続きます。

磯部豊喜

みことばの花 190912「贖罪」

みことばの花 190912「贖罪」

「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。」(ヘブル 2:17 口語訳)

神の御子イエス・キリストが人間になる意義は上記のみ言葉にみられます。
「民の罪をあがなうために」。「あながう」とは「買い取る」ということ。
人の罪を買い取って罪をなくすことを指しています。
その「買い取る方法」が「十字架にかかって死ぬ」ことでした。
神のままでは死ねないので、イエス・キリストは死ぬべき人間になられたのです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190911「閉ざされた御国」

みことばの花 190911「閉ざされた御国」

「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。
彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。」(ヨハネ 8:44 口語訳)

悪魔の目的は、人類を滅ぼすこと。
一昨日の台風のように人の帰る道を遮断すること。
人類にとって帰る家は「天国(神の国)」です。
ところが「天国」を過小評価させ、「永遠の命」なんぞはたわごとと思わせる。
人の一生はただ一度。それでは落ち着かないので、死者について偽物の慰めを教えます。
「星になって守っているよ」と。何の根拠もないのです。聖書は「罪を犯す魂は必ず死ぬ」と教えます。
罪を知り、罪から救う救い主を教えます。
キリストこそ「閉ざされた御国」を開くために来られた唯一の救世主、神の御子です。

磯部豊喜

みことばの花 190910「つながった道」

みことばの花 190910「つながった道」

「イエスは彼に言われた、
『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。』」
(ヨハネ 14:6  口語訳) 

昨日、台風のためにJRは難しいと考えた私は高速バス乗り場へ。
ところが「今日の高速バスは運休です」。
総武線へ移動。 「電車は千葉行きです。ですが台風の影響のため千葉は停電のために幕張までの往復運転を行っています」。
JR秋葉原での駅内放送でした。
ではいかにすれば東京から私の住む千葉教会に行けるのか。
その時、「京葉線」が頭の中に。東京から蘇我へ行く電車は走っていました。
蘇我からどうするかは主イエス様に任せよう。
すると途中、「千葉みなと」駅のコール、ひょっとすると…飛び降りました。
千葉市の中央を走る「モノレール」。幸いに動いていました。
千葉教会に最も近い桜木駅まで行き、無事教会に到着。
この体験を通して、天国への道をつなぐ一つの道を思いました。
その道は「モノレール」ならぬ、「イエス・キリスト」です。

磯部豊喜

みことばの花 190909「神の子が来られた目的」

みことばの花 190909「神の子が来られた目的」

「罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。
神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。」(Ⅰヨハネ 3:1  口語訳)

さて私ども人間が、知らずして犯してしまっている罪の種まきをした存在があることを聖書は語っています。
それは悪魔(サタン)です。
これがまたピント来ない話です。
ただ「罪」を考えるとき、少しばかり逃れ道があるのは、人間は自分から積極的に罪を犯したのではないということです。
悪魔という誘惑者があって、罪を犯すように誘惑されたということです。
そしてこの誘惑は、今の時代にもあります。
「わかっちゃいるけれど、やめられない」のスーダラ節の歌詞にあるように、罪への誘惑にすぐに負けてします。
これが罪びとの姿です。
神の子キリストが人間になって来られたのは、この「悪魔のわざ(=罪と死との法則)を滅ぼしてしまうため」でした。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190908「罪とは」

みことばの花 190908「罪とは」

「ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。
またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。」(イザヤ59:2 口語訳) 

「人は死ぬ定めを持っている」ということは事実ですから、誰も疑問はないと思います。
ですが「罪」が「死」の原因だというとピンとこないかも知れません。
「罪」の定義が分からないからです。
聖書は神の律法を守らない「不法」(Ⅰヨハネ 3:4 口語訳)、善い事が分かっていても行わない「不善」(ヤコブ4:17 口語訳)、
イエス・キリストを信じない「不信」(ヨハネ16:9 口語訳)などが罪であると書いています。
ですが罪のルーツは、アダムとエバの物語にさかのぼります。
罪は結局、神との関係にヒビが入った悲しい行為です。
上記の聖句では「不義」とも呼ばれています。
愛であり命の与え主である神との関係が壊れたこと、これが実は罪の実体です。
愛の神を見上げて「わが父よ!わが神よ!」と呼べなくなった。
ここに私どもの気づかざる罪があります。

磯部豊喜

みことばの花 190907「死ぬ定め」

みことばの花 190907「死ぬ定め」

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ 6:23  口語訳)

昨日、「神の御子の登場は人類の歴史を変える」と言う言葉を添えました。
神の御子はイエス・キリストです。
この方が来られたことで人類のどのような歴史が変わるのでしょう。
それは死(永遠の滅び)から命(永遠の命)に至る道が開かれたということです。人類の否定しがたい事実は、「人が死ぬ」ことです。そして聖書は「死」の原因が「罪」であると言います。
「罪が熟して死を生み出す」(ヤコブ1:15)とあります。
人は当初、永遠の命をもつ者として神によって創造されました。
ですが「罪」を犯したために「死ぬ定め」を持つようになったのです。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜