みことばの花 210316「掃除したはず?」

みことばの花 210316「掃除したはず?」

「帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。」(ルカ 11:25 口語訳)

いよいよ明日引越しです。そこでまた掃除の話。今日が正念場です。狭いところから広い所へ越すのは楽。
ですが今回は広いところから狭い場所へ越します。そこで苦慮します。ガンジーの持ち物は身の回り程度だと言います。
またイエス様の持ち物は服さえもはぎ取られたのでもっと少ない。私はと言えば、やはり荷物は多い。
ところで上記聖句は、掃除の話です。この家は、人の心をたとえている。自分の心掃除を試みることは良いのですが、なぜだかその心の家には、自分以上に悪い霊が入って中に住み込むので、その人の状態は悪くなったという。
これは人の心の掃除は自分では本当はできないことを教えているのだと思います。
人の心はきれいにしたと思っていても、すぐにゴミが舞い戻ってきて汚くなります。
人の心を真に美しく掃除できるのは神(キリスト)以外にない…ということをこの聖句は教えているのでしょうか。

磯部豊喜

みことばの花 210315「片付け」

みことばの花 210315「片付け」 

「また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、
それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。」(ルカ15:8 口語訳)

「片付けが嫌いなの?」と妻にやさしく言われます。引っ越しの時には、特にそうです。「片付けは嫌い」というのは半分当たっています。
ですが正解は「嫌いなのではなく苦手なのです」。最初は取っておくもの、捨てる者をきっちりと分ける事が出来ますが、やがて一緒に箱に詰め込む始末。
結局荷物は軽くならず。ゴミはこうして毎回持ち越されます。今回の引っ越しも最終的にはそうなるかも知れません。
上記の女性も「片付けが下手」なのでしょうか。大切な銀貨を無くしてしまい「家中を掃かないと」見つからないようです。
この聖句はたとえ話ですから、その本意は失われた銀貨は神様の宝物である私どもを指し、これを見つけたら神の御使いたちに喜びがあると記されています。
こういうお宝大発見の片付けでしたら良いのですが…。
主の愛が今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210314「救われる人」

みことばの花 210314「救われる人」

「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(マルコ 16:16 口語訳)

キリスト教の救いの定義は、「罪と死からの救い」です。俗にいう「家内安全心願成就」というたぐいの救いとは、根本的には内容が異なっています。
家の中が安全であることは良いことですし、心に願うことが適えられることも素晴らしいことでしょう。
ですがそうであっても、人生の終焉にあるものは「死」。この「死」を克服する唯一の教え(約束)が聖書に記されています。
聖書によれば「死」は侵入者。「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、
こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ」(ローマ5:12 口語訳)とある。
この「死」の原因である「罪」を処理するために神の御子イエス・キリストが来られて十字架にかかって死んでくださった。
そして命を保証すべくして復活されました。
このキリストを信じてバプテスマを受ける者は、罪が赦され、永遠の滅びから救われて永遠の命を受け継ぐことができるのです。
今週も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210313「新しく生まれる」

みことばの花 210313「新しく生まれる」

「あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。」(ヨハネ 3:7 口語訳)

今日は、千葉教会&銚子教会(聖書研究会)の担当牧師として、銚子に赴く最後の安息日となりました。
銚子教会としては何年ぶるになるのでしょう。バプテスマ(洗礼)と言って、愛の神に人生をささげて新しい人生の出発をする方々が3名おられます。
牧師としてこんなに嬉しいことはありません。バプテスマはイエス・キリストとつながって生きることの表明です。
天地万物の創造主を信じ、このお方に自分の人生をゆだねるスタートです。
これまでの自己中心の人生にサヨナラを告げ、神の導かれるままに人生をおまかせします。
これを悔い改め(生き方の向きを変える、神に心を開いて歩む)とも言います。
ですから「新しく生まれる」ことができます。真に幸せな人生に進むことができます。もはや自分にのみ頼り、頑張らなくて良いのです。
救いの神が私の人生の拠り所になるのです。

磯部豊喜

みことばの花 210312「春風、秋霜」

みことばの花 210312「春風、秋霜」

「しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。」(ヤコブ 4:12 口語訳)

幕末の儒学者、佐藤一斎(さとういっさい)の言葉に「春風(しゅんぷう)をもって人に接し、秋霜(しゅうそう)をもって自ら粛(つつし)む」というのがあります。
「春風接人、秋霜自粛」とも書きます。この意味は「人に対しては春風のように優しく爽やかに接し、自分自身に対しては秋の霜のように厳しく行動をただす」という。
「厳しく追及他人の誤ち、笑って過ごす自分の過ち」とは正反対です。果たして私はどうか…と自問。最近の春風は、花粉が混じって息苦しい。
ですが他者に対し花粉(息苦しさ)のない真に優しい春風を届けたい、そして同時に秋霜のように厳しく自己を見つめる、そういう人になりたいと思う。
今朝、上記の御言葉を眺めてそのように教えられた気がします。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜
・・・・・・・
3月13日(土)ライブ配信 URL です。
安息日学校 URL 3月13日(土)10:00 聖書の学び(わが民を慰めよ)第11課「行動する愛」渡邊邦男(千葉教会長老)
https://youtu.be/hljK2hNlS0g
礼拝説教  URL 3月13日(土) 11:00 説教題「イエスのたとえに見る神の愛」金田寛子(千葉教会長老)
https://youtu.be/2UeWGFpPEKU

 

みことばの花 210311「あれから10年」

みことばの花 210311「あれから10年」

「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。
あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。」(黙示録2:10 口語訳)

今日は2021年3月11日。だとすると10年前は東日本大震災のあった2011年3月11日になります。
あの日、私はこれから行く予定の大岡山教会において大岡山教会を去る荷物の中にいました。
今年は大岡山教会に異動するために東京の自宅に戻る荷物の中にいます。
あれから丁度10年が経っていて、この人生の流れは不思議なものを感じます。
上記聖句は十日の間の苦難のことが書かれていますが、これは黙示録の預言ですから、10日は10年に置きかて解釈することもできます。
10年は長いようで短いと思います。長かろうが短かろうが、大切なことは「忠実」に生きること。今日という日、忠実に誠実に生きる。
主はそのような人に「いのちの冠」を与えてくださるということを覚えたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 2103010「別れ」

みことばの花 2103010「別れ」

「さてパウロは、なお幾日ものあいだ滞在した後、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向け出帆した。プリスキラとアクラも同行した。」(使徒 18:18 口語訳) 

別れは出会いのはじめ、出会いは別れのはじめ、というのは真実だと思います。
先月、辞令を頂きボランティア牧師の継続と異動が決まり、私は慣れ親しんだ千葉教会を離れ、東京(自宅)に戻り、大田区にある大岡山教会に通うことになりました。
上記はパウロの宣教旅行での一コマ。「別れを告げる」点では同じです。
私の場合の同行者は妻です。引っ越し日は来週の水曜日となり一週間後。ですが3月20日、27日の安息日は東京から千葉へ通います。
私は新しい出会いが好きです。大切な人が増えるからです。しかし出会いは別れの始まり。
ですが、この地上で築かれた絆は最終的には天国へ持ち越されます。
ここにキリスト者の喜びがあります。

磯部豊喜

みことばの花 210309「先取信仰」

みことばの花 210309「先取信仰」

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル 11:1 口語訳) 

「まだ事が起きていないのに、あたかもそのようになると確信し振る舞う」ことを先取信仰(さきどりしんこう)と言います。
先取信仰は、私どもの人生を送る上で人生を明るくします。事実、本当に結果も良い。ですが、自分の人生を暗くする先取もあります。
それは「まだそうなると確定したわけではないのに、あたかもそうなるかのように悲観的想定をして振る舞う」。
こういうのは、別名、「取り越し苦労」とも呼びます。まだ悲しい出来事が起きてはいないのに、あたかもそうなるに違いないと思い込み(信じ込み)悩む。
これも信心という点では似ていますが、まったく正反対の生き方。果たして私はどちらの信心を選ぶ傾向があるでしょう。
「先取信仰」か「取り越し苦労信仰」か。私は前者を選んだ方が良いと考えています。
少なくともキリスト信仰は「先取信仰」を助けてくれます。
神の愛と最善を信じるからです。

磯部豊喜

みことばの花 210308「感動」

みことばの花 210308「感動」

「祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである」(マルコ 11:18 口語訳)

人はどういうときに感動するのでしょう。
予想していたことのレベルを超えていること、あるいは予想もしていなかった出来事に触れたり味わう時に感動するのではないかと思います。
私はかつて自暴自棄に陥っていた時がありました。
自分は実に罪深く、とてつもなく悪い人間だ…と心が落ち込んだことがありました(今でも自分の至らなさに落ち込むことはある…)。
そのような時、「あなたの罪は赦されているよ」という主の御声に触れました。そのときとても感動しました。
「えっ、こんな私でも…ですか」。その日以来、キリストが大好きになりました。
上記はイエスの教えのすばらしさを語っている場面です。キリストの教えは温かく、心を開いて聞く人を感動させます。
キリストの御言葉は愛の言葉、どうぞ主の愛の言葉に触れ続けてください。
主の愛が今日も迫ってきますように。

磯部豊喜

みことばの花 210307「自分の目」

みことばの花 210307「自分の目」

「人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。」(箴言 21:2口語訳) 

みことばの花210307「自分の目」
「人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。」(箴言 21:2)
最近、私は足をいろいろな所へぶつけて「痛っ」と悲鳴をあげることしばしばです。
七十路が近くなってきているからであろうか・・・などと考えたりもしますが、結局、これは自分の目測ミスに他ならない。
「この足の運びで大丈夫」という感覚と実際が異なっているのです。
さて、この私の目測の誤りは、人生の道についてもいえるかも知れません。
例えば聖書はこれこれ言っているけれど、私はこう考える。このような自分の目は、人生の道を踏み外す可能性が大きい。
私はこう思うけれど、「まずは神の言葉に聞いてみよう、従ってみよう」と選択したい。そうすれば人生の道は必ず開けるに違いない。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6 口語訳)と主は言われました。
主の道は何ですか?と今日も、祈りつつスタートしたいのです。

磯部豊喜