みことばの花 200330「生き返り」

みことばの花 200330「生き返り」

「…しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。
(ルカ 15:32 口語訳)

「生き返り」という言葉には、心地よい響きがあります。
上記の聖句にある「死んでいたのに生き返り」とあるのはキリストの喜びの御言葉。
「死人が生き返る」という出来事は、実際にイエス・キリストに関わる人々の中で見られました。
しかしキリストの喜びは、この「生き返り」が単に身体の復活を指すことだけではありません。
「夢も希望も失せ果てて、死んだような生き方をしていた人」が「命と愛のあふれる人」として、精神的に再生されて新しくスタートすることです。
人は新しくなれる。
私も新しくなれる、そう信じて今日も主の愛を見つめて歩みたいと願います。
主も守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200329「あなたの道を」 

みことばの花 200329「あなたの道を」 

「彼は言った、『ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。…」(ダニエル 12:9 口語訳)

今年の1~3月に教会ではダニエル書という聖書箇所を学びました。
預言あり、人間ドラマあり、奇跡あり…とても興味深い学びをしました。
千葉教会では「ライブ配信」も開始したために、私は緊張しっぱなしです。
そのような中で、上記の聖句が私の心に留まりました。
「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。」このような言葉を神様から言われたダニエルという人はすごい人です。
私の場合は、「磯部よ、もっとしっかりと歩みなさい」と諭されるような気がします。
ダニエルのように「あなたの道を行きなさい」と呼ばれる人になりたい、近づきたいものです。
今週も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200328「春の3K」

みことばの花 200328「春の3K」

「そのひとりが言った、『来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう』…」
(創世記 18:10 口語訳)

季節に関する春の3Kという言葉があるそうです。「寒暖差」「乾燥」「花粉」の頭文字は「か」ということで「3K」。
今年はこれに「コロナ?」の「K」も加わるのでしょうか。
この単語には嫌なものを感じます。
「コロナ」とは本来の意味は「王冠」。このウイルスの形が「王冠」のようなので「コロナ」。
ところで「春」という言葉が最初に聖書に登場するのが上記の御言葉です。
この「春の訪れ」は明るい内容です。
イスラエル人のルーツとなる重要人物アブラハムと妻のサラに男の子が生まれるという約束の言葉です。
サラは高齢出産。彼女から「笑う」という名を意味する「イサク」が生まれます。
人生、冬来たりなば春遠からじ。
それでも春は必ず来る!ハッピーサバス!

磯部豊喜

本日も千葉教会では安息日集会の「ライブ配信」を致します。安息日学校と礼拝はそれぞれアクセスナンバーが下記のように異なります。
安息日学校「塵から星へ」(ダニエル書12章)磯部豊喜  3月28日 10:00 https://youtu.be/eXwWj7F7hcY
礼拝説教「それでも春は来る」磯部豊喜  3月28日 11:00 https://youtu.be/zKEYThRsPNE

 

みことばの花 200327「その朝を…」

みことばの花 200327「その朝を…」

「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(詩編30:6 口語訳)

私たちの人生、夜が来ます。しかし明るい朝も必ず来ます。
しかも闇は朝の光に触れるならば決して、決して、勝てないのです。
新型コロナウィルスはますます世界を恐怖の中に陥れています。
ついに東京オリンピックも1年延期が決定され、東京には「オーバーシュート(患者の爆発的急増)」という言葉が飛び交い始めています。
東京が閉鎖されないことを願います。
今はまさに闇、ですが今日の御言葉は「喜びの歌と共に朝を迎える」ときが来るとある。
その喜びの朝とは、私はこのように受け止めています。
それは究極的には、キリストの再臨(この世界に再び来られること)という朝です。
これは聖書の固い約束です。
キリスト者は「その朝を…」夢見ています。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

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明日も千葉教会では安息日集会の「ライブ配信」を致します。安息日学校と礼拝はそれぞれアクセスナンバーが下記のように異なります。
安息日学校「塵から星へ」(ダニエル書12章)磯部豊喜  3月28日 10:00 https://youtu.be/eXwWj7F7hcY
礼拝説教「それでも春は来る」磯部豊喜  3月28日 11:00 https://youtu.be/zKEYThRsPNE

みことばの花 200326「いっさい」

みことばの花 200326「いっさい」

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」(一ぺテロ5:7 口語訳)

「神はあなたがたをかえりみていてくださる」という約束は実に心強い内容です。
ペテロはそのような神がおられるのであるから「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」と勧めます。
ところでこれを自分の心にもって来るのは、実に難しい。
「ある程度はお任せします」と息巻くことは出来ても、「いっさい」となるとどうでしょう。
「いっさい」とは「すべて」すなわち「全部」という意味です。
人生のすべての思いわずらいを神にゆだねる…これが出来れば、心には必ず平安が訪れるはずです。
これが出来る人はいるでしょうか。
これが出来た人はこの世界にただ一人。それは神のみ子イエス・キリスト。
キリストは父を良く知っておられた。
それゆえにいっさいをゆだねることがお出来になられたようです。
このイエスを見つめることがその「いっさい」の入り口に違いない。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200325「誕生日」

みことばの花 200325「誕生日」

「さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、
彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。」(マタイ 14:6,7 口語訳)

多くの人にとって誕生日は嬉しい日でしょうか。
ですがこの自らの誕生日の祝いの席で、聖なる人(バプテスマのヨハネ)の命を奪ってしまったヘロデ王のことを聖書は記録しています。
ヘロデのように悪徳の記録を残すような誕生日は迎えたくないものです。
ところで宗教改革で有名なマルチン・ルターは、11月10日が誕生日だそうですが、それが何年(1483年とか1484年とか)か不明とのこと。
しかし人に大切なことは、誕生の年月日よりもその後の生き方でしょう。
神様が人に問われるのは、「あなたの誕生日はいつか」よりも「どんな生き方をしてきたか」ではないかと思います。
良き生き方をしたいものです。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200324「92才現役」

みことばの花 200324「92才現役」

「モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。」(申命記 34:7 口語訳)

「安らかに死ぬこと」を意味する「大往生」という言葉があります。
人生の終りまで、身体共に壮健で過ごす人は数多くないかも知れません。
イスラエル人のリーダーだったモーセは、まさにそのような人物でした。
さて、先日「サインズ」誌に92才現役という大川繁子さん(小俣幼児生活団 主任保育士)の問答記事を読みました。
あのモーセのように「目はかすまず、気力は衰えていない人に違いないと察しました。
大川さんは、「私がめざしているのは、いわゆるスゴイ人を育てる保育ではありません。
それぞれの子供が、それぞれ持っている才能や力をめいっぱい発揮する保育なのです」と語っておられます。
それにしても92才現役、すごいですね。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200323「一日を」

みことばの花 200323「一日を」

「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ 6:34 口語訳)

以前に「みことばの花」に取り上げたことのある、日めくり漫画「100日後に死ぬワニ」のネットでの連載が、3月20日をもって終わったようです。
それにしてもネットのフォロワー(登録者)数200万人は凄い。作者は漫画家のきくちゆうき先生。普通の日常をとらえてワニが生活する様を描いています。
たとえばネット通販で人気商品が1年後に届く商品を注文するワニの姿も描かれています。
当然、ワニは商品を手にできない。
作者がこの漫画に取り組まれた理由、それは友人を交通事故で亡くされたことだという。
命の大切さが背後に扱われているようです。
人生の終りは必ず来る。それゆえに日々の歩みを大切にしたいものです。
明日のことを思い煩わずに…。

磯部豊喜

みことばの花 200322「忍耐」

みことばの花 200322「忍耐」

「愛は、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(Ⅰコリント13:7口語訳)

上記は、一度「みことばの花」で配信したことのある聖句です。私はこの聖句を眺め「サンドイッチ聖句」にして読み始めました。
どういうことかと言いますと、この聖句は両端に「忍」、「耐」とあり、中身に「信」「望」があります。
真の「忍耐」を持つには、「すべてを信じ、すべてを望み」という心持ちがなければならないと読むのです。
「堪忍袋の緒が切れる」人というのは、結局「すべてを信じられない」「すべてに望みを持てない」人。
もし「すべてを信じ」「すべてを望んで」物事を見つめていれば、真の「忍耐」が生まれる。
真の愛は、このような要素を含んでいるのでは…と、この一句は私の心にいつも迫って来ます。
「忍耐力」の乏しい私には実に大切な聖句なのです。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜