みことばの花 191021「預言」

みことばの花 191021「預言」

「まことに主なる神は/そのしもべである預言者にその隠れた事を/示さないでは、何事をもなされない。」(アモス 3:7 口語訳)

「牧師さんはどうして見えない神を信じられるのですか」と聞かれることがあります。
私は学生時代、電子工学の学びをしていました。
工学系の頭であったのかどうかは分かりませんが、当時の私は証明されないもの以外は信じない若者でした。
その中で聖書に触れ、いつの間にか神の存在を疑えなくなりました。
その役割を果たしたのが、聖書の預言です。
前もって「これこれこうなる」という預言者に授けられた言葉が、後にその通りに実現する。
聖書はそのような預言に満ちています。
何とその預言的中率は100%。
神の存在を疑えない理由がそこにありました。

磯部豊喜

みことばの花 191020「祈祷会」

みことばの花 191020「祈祷会」

「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ 18:20 口語訳)

今私のいる千葉教会では祈祷週という特別な一週がはじまっています。
来月にはア・カペラコンサート(11/2)があり、教会員8名と私を含めた9回の福音宣教のための集会(11/4-14)があります。
そのために教会や家庭で1週間ほど祈祷集会(13:30)を持ちます。
礼拝での交わりも素晴らしいですが、祈りの集会はとても有意義で楽しいものです。
クリスチャンとはいえ、人間にはいろいろな重荷があります。
互いに重荷を分かち合い、祈り会う、それが教会の祈祷集会です。
そして何よりも目には見えませんが、主イエス様がその中におられると言われます。
こういう祈祷の場を私は大切にしたいと考えています。
主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 191019「うわべ」

みことばの花 191019「うわべ」

「主は言われた『わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう』。」(出エジプト 33:14 口語訳)

教会は、日常生活の緊張をほぐして素の自分でいられる所でありたい。
ところで次の一文を発見。
「この世界には、うわべだけとりつくろった見せかけが多い。
…時には教会は、人が自然にのびのびとふるまえる場所からもっともかけ離れていることがある。
人々は…よそゆきの服と教会用の微笑とで装う。
偽りの親睦は緊張するので、教会を出るとほっとする。
この不自然な雰囲気を改善する最良の方法は、教会でわたしがともにいるのを常に意識することだ。
わたしと霊的にふれあうこと、わたしの栄光をたたえること、わたしの栄光をたたええることを、第一の目的としなさい。」(サラ・ヤング)
主とお会いする所にうわべをつくろわない場所があるのは確かです。
主イエスこそ安息です。
今日は第七日安息日。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 191018「なおも信じる」

みことばの花191018「なおも信じる」

「『わたしは大いに悩んだ』と言った時にもなお信じた。」(詩篇 160:10 口語訳) 

連日台風19号の残した爪痕の報告を耳にします。
陸の孤島になって歯を食いしばって不安の中にある人々がいます。
福島、宮城は特に大変、しかし山梨なども陸路がふさがれて大変です。
このような災害が起こるたびに、愛の神様を疑う材料が人の心の隙間を埋めます。
「神がおられるならば、なぜこのようなことを許されるのか?」とクリスチャンでも叫びたくなります。
ですがこれは不信仰の誘惑。
それでも神は愛なり…と信じることが期待されます。
悩むことに事欠かない私どもの人生。それでも「なお信じる(信頼する)」心を育てたい。
これは信仰における天下分け目の戦いなのです。

磯部豊喜

みことばの花 191017「命を守る行動」

みことばの花191017「命を守る行動」

「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」(マルコ 8:36 口語訳)

台風19号で亡くなられた方々の人数が日に日に増えて、心が痛みます。
ニュースで何度も聞いた言葉、「命を守る行動をとってください」。
危険だと思ったら、早めに行動をとることが大切。
「あっ、ここも危ないな…」と感じて、避難場所に移動する最中に命を落とした人がいます。
助かるための行動をとったのに助からなかった。
ところで上記にある「自分の命」とは広い意味があり、それは「永遠の命」をも含む言葉です。
災害を逃れて生き延びたとしても、人はいつか死を迎えます。
神は命には第二ステージがあることを教えています。
上記のキリストのみ言葉は「【永遠の命】を損したら、何の得になろうか」とも読むことが出来そうです。
主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 191016「本当の罪」

みことばの花 191016「本当の罪」

「イエスは彼らに言われた、『もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが「見える」と言い張るところに、あなたがたの罪がある。』」(ヨハネ 9:41 口語訳)

逆説的真理というものがあります。
「自分は大丈夫」という者が実は危ない。
また「自分には出来る」という者が実は違う。
上記の聖句はキリストのお語りになられたみ言葉ですが、これも逆説的な真理であろうと思います。
「今あなたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と。
「自分には罪がない」という人があるでしょうか。
その人こそ実は「罪の塊(かたまり)のような人」なのです。
立派に見える人が立派な人なのではない。
本当に立派な人とは、自分の真の姿を見つめられる人。
自分には欠点があると、心から認めることの出来る人。
こういう人はキリストを求める。
自己過信、これこそ「本当の罪」の姿なのでしょう。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 191005「心をこめて②」

みことばの花 191005「心をこめて②」

「…以前あなたがたが約束していた贈り物の準備をさせておくことが必要だと思った。
それをしぶりながらではなく、心をこめて用意していてほしい。」(Ⅱコリント 9:5 口語訳)

先日の長野県防災の一文は、私の心に熱いものを感じさせてくれます。
多くの河川の水が民家になだれ込み不眠不休で救援活動をしておられる人を思うと頭が下がります。
マザーテレサの次の一文を思い出します。
「大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかでなく、どれだけ心を込めたかです」。
先日の世界ラグビーの試合、日本チームはこれまで一度も勝利できなかったスコットランドも破り、ベスト8に進みました。
これも実に被災者のために「心をこめた」試合だったと思います。
上記にも「心をこめて」という言葉が登場します。
何事をするにも、「心をこめて」したいものです。
今日も被災者の方々に天来の励ましがありますようにと「心をこめて」祈りたい。

磯部豊喜

みことばの花 191004「心をこめて」

みことばの花 191004「心をこめて」

「こうしてわれわれは城壁を築いたが、石がきはみな相連なって、その高さの半ばにまで達した。民が心をこめて働いたからである。」
(ネヘミヤ 4:6 口語訳)

台風19号が去って、救助活動が行われています。
これは長野県防災の心をこめた言葉です。
「見てます!確認しています!必ず行きます!絶対に諦めないで。励ましてください。全力で助けます。
同じ言葉しか言えないですが、それだけ僕らも助けたい気持ちは同じです。
必ず助けます、屋根に登るなど、命を守る行動をしてお待ちください!かならずいきます!」。
何もできない私ですが、せめて心をこめて祈りだけは捧げたい。
天来の支えが被災された多くの方々の上に注がれますように。

磯部豊喜