みことばの花 190721「悲しいこと」

みことばの花190721「悲しいこと」

「考えてみよ、だれが罪のないのに、/滅ぼされた者があるか。どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者があるか。」(ヨブ 4:7)

聖句の中には、そのまま読んでその通りに理解できるものと、そうでないものがあります。
上記はヨブ記の中の言葉ですが、正しい人ヨブを責めるエリパズという人が語った言葉です。
こういう言葉に触れる場合には背景をしっかりと受け止めないと誤解します。
「罪のないのに滅ぼされた者があるか」は正しいでしょうか。
イエス・キリストは罪がなく正しい者でした。
ですが十字架に架けられ命を絶たれました。
京都のアニメーターの多くの人々が心無い男によるガソリン火災の巻き添えで亡くなった。
心から哀悼の意をささげます。
真面目に働いている最中に命を閉ざされる理由はないのです。
この世界には悲しいことがあまりにも多い。
私はこういうことが起きる度に、キリストの愛の国が来て欲しいと願います。
「わたしはすぐに来る」(黙22:20)の約束が一日も早く成就しますように。

磯部豊喜

みことばの花 190720「愛を加える」

みことばの花190720「愛を加える」

「信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ 1:7)

「信仰は練習次第」ということを昨日書きました。
「信仰」というのは、「神を信頼する」ことです。
信頼するには、神の御言葉に触れ、それを実行することが大切。実行する時に、そのみ言葉の真実を体験できる。
そうすると信仰が増して来て、ますます神を信頼できるようになります。
神を信頼する心を「信心」と書きます。
さて上記の「み言葉」には、「信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい」と記されています。
これは積み木のように重ね合わせる。
信心に「兄弟愛」、さらに「愛」を加えよという。
愛がなければ一切は無益です。
教会の目的は「愛」を学ぶところ。私というかき氷に、兄弟愛とか愛というシロップを加える。
きっと味のある人になれるに違いない。
今日は第七日安息日、神の愛というシロップをかけて頂き、暑い夏を涼しく優しい心で過ごしたいものです。
ハッピーサバス!    ※サバスは「安息日」。

磯部豊喜

みことばの花 190719「夏」

みことばの花190719「夏」

「地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう。」(創世記 8:22)

上記は聖書に文字として最初に登場する「夏」と「冬」です。
今年の「夏」は、ここのところ5月中旬のような気温が続きました。
昨日はようやく汗ばむ一日でした。「夏」は暑いので、私はあまり好きではありません。
ですが「夏」は「夏らしく暑い」のが相応(ふさわ)しいとも思います。
ところで私の子供の頃の夏と現在の夏、気温がかなり違います。
昔は35°Cを越えることなどなかったと思います。
扇風機で我慢できたのですから…。
それにしても高校野球児たちの鍛えた体はすごい。
私も暑さには弱くても、永遠の命につながる信仰の心だけは鍛(きた)えたい。
やはり信仰も練習次第です。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190718「わたしはあなたに祈ります」

みことばの花190718「わたしはあなたに祈ります」

「しかし主よ、わたしはあなたに祈ります。
神よ、恵みの時に、あなたのいつくしみの豊かなるにより、わたしにお答えください。」(詩篇 69:13)

この世に最高のものがあるとしたらそれは「祈り」ではないかと私は思います。
クリスチャンの強みを考えてみました。
それは何といっても「祈り」があるということです。
「信仰の祈りはクリスチャンにとって非常に大きな力です。
信仰の祈りは確実にサタンに勝利します。
それゆえサタンは絶えずわたしたちに、祈りは必要ない、とささやきかけます。
サタンは、わたしたちの擁護者(ようごしゃ)であるイエスのみ名が嫌いです。」(ホワイト「祈り」p132)
「わたしはあなたに祈ります」と、自分に言い聞かせ、毎日を始めたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 190717「死は眠り」

みことばの花190717「死は眠り」

「そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」。」(ヨハネ11:11)

上記は覚えやすい聖句箇所です。
ヨハネの「11=いい、11=いい」話。
主イエスに、友ラザロと呼ばれたラザロははキリストとの友情が結ばれていました。
この聖句に続く会話はがこうです。
「すると弟子たちは言った、『主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう』。
イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。」(同11:12—13)
主が語られた友ラザロの「眠り」は、実は「死」。
ですがラザロはこの後に、主の「御声(みこえ)」によって死から目覚めます。
これはとっても「いい」約束の話。
主と友情を結ぶ人は、必ずラザロのような体験をすることでしょう。
今日も主も恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190716「律法者」

みことばの花190716「律法者」

「いかにわたしはあなたのおきてを/愛することでしょう。わたしはひねもすこれを深く思います。」(詩篇 119:97)

律法主義者と呼ばれる人がいます。自分は律法を守っていると自負している人のことです。
自分は神の戒めを守っているので、救われて当然だと思い込んでいる人のことです。
神様はこのような律法主義者を悲しまれる。
律法を守っていると言い張っていても救いからは遠い。
しかし一方、聖書は律法を大切なものとして教えています。
キリストはひとりの律法学者に対して「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」と質問。
彼は「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と答えましたが、その人の答えを支持されました(ルカ10章参照)。
律法をただ守るのではなく、愛によって守ることが大切。
これを律法主義者とは違う「律法者」と私は呼ぶ。
愛を基とする「律法者」でありたい。

磯部豊喜

みことばの花 190715「価値観」

みことばの花190715「価値観」

「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。」(ローマ8:5)

「肉」とか「霊」という対比は、紀元1世紀にキリストの福音を広めたパウロがよく使った言葉です。
この言葉の意味するところは、人間的な思いと神的な思いという価値観を指す言葉でしょう。
「肉(人間中心)」の価値観は、現世にしか価値観を持てない。
今にしか価値観を置かないので、人生の嵐に遭遇すると潰れてしまう。
しかし「霊(神中心)」の価値観には、将来があり、やがてきたる世界への希望があります。
ですからパウロは続けて「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」(同8:6)と語ります。
果たして私の価値観は「肉」か「霊」か。
「いのちと平安」に至る価値観を持ちたい。
主の愛が今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190714「人をさばく者」

みことばの花190714「人をさばく者」

「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。
あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。
さばくあなたも、同じことを行っているからである。」(ローマ2:1)

私の心から取り去りたいもの…それは「さばく心」。
されどなかなか抜けきれいなもの…「さばく心」。
なぜ「さばく心」の剣は、私の心の中に光るのでしょうか。
それは自分こそが正しいと思うからでしょう。
「さばく心」は、隠すことが難しい。
目線とか態度で現れるからです。
「さばく心」が恐ろしいのは、「他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている」ということ。
「さばく心」を追い払う方法はあるのか。
少なくとも人をさばきたくなる時、その人の良いところを探すとよい。
そうすれば「さばきの心」という剣は鞘(さや)に納まると思います。
主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜