みことばの花 181116「起きなさい」

みことばの花181116「起きなさい」

「イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、『起きなさい、恐れることはない』。」(マタイ 17:7)

今朝はキリストがお語りになられた短い言葉に注目。その一つは「起きなさい」という言葉。キリストがこの言葉を語られる時、人を助け、励ます場合が多い。「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、『若者よ、さあ、起きなさい』と言われた」(ルカ7:14)。「イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、『起きて、まん中に立ちなさい』と言われると、起き上がって立った」(ルカ6:8)。「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」(ヨハネ 5:8)。「イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、『娘よ、起きなさい』」(ルカ 8:54)。キリストは起きて立ち上がらせる力を持っておられるのですね。そういえば聖書は、今日の私にも「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう。」(エペソ5:14)と語りかけておられます。心の眠りがちな私への金言としたい。

磯部豊喜

みことばの花 181115「広い視野」

みことばの花181115「広い視野」

「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(ピリピ 2:4)

視野という言葉があります。視野の広さは、きっと自分の側の視点だけに立たないことを指していると思います。自分の側から物を言うのはたやすい。しかし同時に、相手の側にも立ってみなければ、それは狭い視野となる。父とその幼い息子とのこのような話のやりとりをみました。「お父さん、敵のヘルメットを持って帰って来て。そんなふうに幼い息子からねだられ、出征した父親がいた。第一次世界大戦でドイツと戦ったフランスの兵士である。持ち帰るのはむりかもしれないと、戦場から手紙を書いた。『考えてごらん。ドイツ人だって僕たちと同じなんだよ』。もし逆なら、お前はどう思うか。お父さんの軍帽を、ドイツ兵が自分の子どもに持ち帰ったとしたら―。殺される側のことを教えようとした彼は、1915年に戦死した」(11月13日朝日新聞1ページ)。悲しい話ですが、自分のサイドからの視点だけでなく、相手側の視点も父は考えたのです。上記のみ言葉を心に刻み、常に広い視野でいたいと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花 181114「十人」

みことばの花181114「十人」

「ギデオンはしもべ十人を連れて、主が言われたとおりにおこなった。ただし彼は父の家族のもの、および町の人々を恐れたので、昼それを行うことができず、夜それを行った。」(士師 6:27)

十人という数は良いものです。聖書の中で人間の最小グループは10人を指している場合が多いです。ルツ記という聖書の中には、外国人女性であったルツを妻にするにあたって、ボアズという人は、手続き上、「ボアズはまた町の長老十人を招いて言った、『ここにおすわりください』。彼らがすわった時、ボアズは親戚の人に言った、『モアブの地から帰ってきたナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売ろうとしています。』」(ルツ 4:2,3)といい、十人の長老たちに証人となってもらい、結果としてルツを妻にめとりました。上記は、イスラエルを誘惑していた偶像を壊すのに、士師のギデオンが、「しもべ十人」を連れてこれを破壊したときの聖句です。最低同志が十人いれば、意見はまとまり、力も強くなります。今千葉教会でも十人の有志による講演会を行っています。日に日に出席者が増えているのは、牧師にとって励みになります。「十人十色」と言いますが、十人の個性がキリストのもとに一つになって説教する姿は実に頼もしいものです。※この講演会は明日最終日を迎えます。

磯部豊喜

みことばの花 181113「塞翁(さいおう)が馬」

みことばの花181113「塞翁(さいおう)が馬」

「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。」(伝道の書 7:14)

「人間万事塞翁(にんげんばんじさいおう)が馬」、最近知った言葉です。次のような話に基づいています。「昔、中国地方の塞(とりで)近くに住む老人(塞翁)の馬が逃げたので、人々が気の毒がると、老人は『そのうちに福が来る』と言った。やがて、その馬は駿馬(しゅんば=優れた馬)を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は『これは不幸の元になるだろう』と言った。するとこの駿馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折った。人々がそれを見舞うと、老人は『これが幸福の基(もとい)になるだろう』と言った。一年後、隣国が攻めて来て戦になり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しないで済んだ」という。良いことに有頂天にならず、悪いことに失望せず、人生の裏表を冷静に見つめる。上記の聖句にも、順境も逆境も前向きに飲み込んでいく生き方に良き人生の道があることを覚えたい。今日の主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 181112「憂い」

みことばの花181112「憂い」

「心に楽しみがあれば顔色も喜ばしい、心に憂いがあれば気はふさぐ。」(箴言 15:13)

顔色のことがここに書かれています。人の心の状態は、顔にも、態度にも変化を与えます。生体リズムを表すバイオリズムという言葉もありますが、人はいつも平静で安定した心身の状態ばかりとはいえないかも知れません。少なくとも私は牧師でいながら、未だに上がったり落ちたり、釣り糸を垂れて、その先の水面に浮かぶ「ウキ」のようです。気持ちが塞いでしまうとき、人は字を見ても、言葉を聞いてもへんな解釈をしてしまう。次は、ある会社員の言葉です。「『三連休』という新幹線での電光掲示板の文字が『三遺体』に見えた。スピーカに流れる『醍醐味(だいごみ)』が『粗大ゴミ』に聞こえた」。「心に憂いがあれば気はふさぐ」、たしかにこれは当たっていると思います。こういう時はどうすれば良いのか。「憂い」を「うれしい」と言い換えてみるのも一策かも。いえいえ、まず神様のみ顔を仰ぐことだと思います。主は光、「闇はこれに勝たなかった」とあります。闇の心を追いやる天の光に触れたい、「もっと光を!」と求めたい。

磯部豊喜

みことばの花 181111「再起動の日」

みことばの花181111「再起動の日」

「夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。」(ローマ 13:12)

今日は11月11日。この日はいい月、いい日とも読むことが出来ます。日本では「介護の日」だそうです。また中国では、「一人者の日」だそうです。そこで発想を広げて2011年11月11日は何の日かネットで調べてみました。すると「2011年11月11日午前11時11分になる瞬間」という見出しの一文に出会いました。これを調べましたら、この日に11歳を迎えるイギリスの少女が話題になっているとありました。この11年前のこの月日時間に生まれたのでしょうか。また「2011年11月11日に世界はリセットされる」という一文も発見。ここには「100年に一度の再起動の日」とあり、「これは世界はリセットされる?」ともありました。実は本当の「再起動の日」というと、私は上記の聖書にある御言葉(みことば)を思います。この御言葉は、人類歴史の再起動の日を描いています。「夜はふけ、日が近づいている」、…これはイエス・キリストの再臨の日を暗示します。この日に世界はリセットされる、まさに希望に満ちた「再起動の日」なのです。

磯部豊喜

みことばの花 181110「あかりと、油」

みことばの花181110「あかりと、油」

「思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。」(マタイ 25:3)

11月8日の朝日新聞の1ページです。ここに聖書の言葉が2箇所も記載されていました。一つは英文聖書を訳したのかも知れませんが、「分裂して争う家は立っていることができない」(マタイ12:25)という聖句が記載され、現在の米国の分断を描写して、昔リンカーンが演説で引いたとされる一節が書かれていました。そしてもう一つの聖句が、上記です。そこにはこんなコメントがありました。「…視界が遮られているのは、目を凝らせばある未来が確実に来ることがわかるのに、すべてを先送りにし、その対策に本気で着手できないでいるからではないのか。例えば人口減少、国家財政の破綻、経済成長の限界、放射性廃棄物処理の膠着(こうちゃく)。聖書のこの一節は私たちのそんな無様(ぶざま)も思い起こさせる。」と。今の時代は、油の欠落している時代なのでしょうか。「あかり」は人生に希望を与える神のみ言葉、油は「あかり」を心に灯す「神様の霊(聖霊)」を指しています。聖書の光は油があって正しく理解されます。今日は第七日安息日、「あかりと、油」を求めたい。

磯部豊喜

みことばの花 181109「主の祈り⑪ーなんじのものなればなり」

みことばの花181109「主の祈り⑪ーなんじのものなればなり」

「国とちからと栄えは、限りなく、なんじのものなればなり、アーメン」(「主の祈り」より)

キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り」は、マタイによる福音書では6章9~12節に記されています。ルカによる福音書11章2~4節にもあります。ところでこれまで並行して紹介してきました定番の「主の祈り」の言葉には、マタイにもルカにも書かれてない一文が足されています。これは旧日基讃美歌564番にある。どうして聖書に記されていないこの一文が、ここにあるのか私には分かりません。ご存知の方がおられたら教えていただきたいのでありますが、この一文を添えると、「主の祈り」をささげる時に、何となくストンと落ちつくのです。「国と力と栄えは、限りなく、なんじのものなればなり、アーメン」と唱えて、「祈った~」となります。この言葉は、「すべてのものが、神様、あなたのものです!」という信仰の告白。「自分のものは、自分のものだ…」と固く主張する自分がいますが、私の命も実は神様からの預かりもの。命の与え主のものであると言えるでしょう。ですから、今日もこのような信仰の告白をもって、主をみあげて歩みたいと思います。

磯部豊喜