みことばの花 210218「アーメンたるお方」

みことばの花 210218「アーメンたるお方」

「これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」(黙示録 22:20 口語訳)

「アーメン、ソーメン、冷ソーメン」などと子供の頃に遊び心で語っていた言葉を、いつの日にか祈りの後に付け加えている自分がいます。
クリスチャンは祈りの後に、「アーメン」と言います。
その意味は「まことに」とか「真実に」ですが、これを心を込めて言えるようになるのが不思議です。
私どもの会話でも、「はい!」と返事をします。いつから身に着けたことでしょう。「アーメン」も同様です。
教会で人が祈る時、慣れないと「アーメン」は言いにくい。中にはすぐにスーと言える人もいますが、すごいと思います…。
わたしはそうではなかった。でも今は言える。牧師ですから当然なのですが…。
神は「アーメンたる」お方です。

磯部豊喜

みことばの花 210217「人間の努力+α(祈り)」

みことばの花 210217「人間の努力+α(祈り)」

「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(箴言16:3 口語訳)

私は何でもかんでも「神様に祈りさえすれば…」と言う言葉は嫌いです。人間には果たすべき分というものもあります。
例えてみると、受験。勉強もしないで受験をし、祈りをささげて解答用紙に向かう。これでは絶対に受かるはずはない。
祈りは、怠け者を導くマジックではありません。不断の努力をしている人が、祈りを加える時に結果がついてくるものです。
人は精一杯努力をしても不安が襲ってくる時があります。このような時に、祈りを加えてみる。
そうしますと主は、私の傍にいて私を応援してくださいます。努力をして学んだことを、思い浮かばせてくださいます。
また何かに挑戦する時にも、アイデアを浮かべさせて下さるかも知れません。
上記の聖句は努力している人に当てはまるみ言葉だと私は受け止めています。
努力をしても人には限界があります。
そこで「なすべき事を主にゆだねる」、これが大切な気がします。

磯部豊喜

みことばの花 210216「あなたの荷を」

みことばの花 210216「あなたの荷を」

「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」(詩篇 55:22 口語訳)

人はいろいろな荷物を背負って生活しています。
ある人にとってその荷物があまりにも重くのしかかっていると感じるために、自ら命を断つ人が後を絶ちません。
この荷を支えるにはどうすればよいのかを考えてみました。一つは、荷物を分散して背負う。二つは、この荷物に耐え得る自分の足腰を鍛えること。
しかしこれらは理屈の話で、実際には難しい。
ある人の夢の話ですが偉い儒教の先生が登場し、深い穴に落ちた人に向かって「足腰を鍛錬して出て来なさい」と言ったという。
ですが、これは難しい。ではどうすれば荷に押しつぶされずに生きられるのか。そのヒントが上記の聖句にあります。
「あなたの荷を主にゆだねよ」。「神様、この僕の重荷は重くて負いきれません。どうか助けてください。」と本気で祈ってみる。
私はこの祈りで何度も救われました。
主は私の荷を背負ってくださいます。

磯部豊喜

みことばの花 210215「恐れることはない」

みことばの花 210215「恐れることはない」

「エリシャは言った、『恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから』。」(列王下 6:16 口語訳)

1対10とか、10対100などという組み合わせはどう考えても勝ち目のないものです。
こちらは少数で敵は大軍…こういう立場に置かれたなら厳しいものがあります。
しかしたとえ少数でも、もし私どもが正しい側にいるならば、「恐れることはない」とある。
正しい側にとって上記の聖句は、力強い味方です。
「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多い」。
上記は、小国イスラエルに対し大国シリヤ(アラム)の大軍が攻めてきた時に、預言者エリシャの語った言葉です。
このときイスラエル側に、火の車と火の戦車が山に満ちていたという。
この戦いの結末は、戦わずしてイスラエルが勝利します。
要は私がどちら側にいるかということです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの 210214「激しい地震」

みことばの 210214「激しい地震」

「すると、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが起り、また激しい地震があった。
それは人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった。」(黙示録 16:18 口語訳)

昨日、大きな揺れが東北を中心に起きました。
直下型ではなく震度6という横揺れの地震でしたので、10年前のような大きな被害は出ていないようですが、停電になっている家屋が多く寒さの中で心配です。
私は入浴中でしたので少し困りましたが、大きな揺れを感じて思わず湯船の中で祈りました。30秒ぐらいの揺れはやがて静まりました。
さて上記は、世界の終りに起きるとされる大地震の予告。「人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった」とあります。
聖書の預言は、未来の出来事でも確実に起こるゆえ未来完了形で表現されます。このような激しい地震に遭遇したらどうすれば良いのでしょう。
その対処の仕方は、ただ一つ。それは慌てずに祈る事だと思います。
「信じる者はあわてることはない」(イザヤ28:16 口語訳)との聖句を心に刻みたい。

磯部豊喜

みことばの花 210213「思いがけない時に」

みことばの花 210213「思いがけない時に」

「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイ24:44 口語訳)

未だに収束をみない新型コロナ。不思議なことに私が直接に出会っている人々の中に感染者は見かけません。
そのゆえにでしょうか。私にとって新型コロナは対岸の火事のようなものです。ですが、徐々に身近な所へ土足で迫ってきているのかも知れません。
ニュースなどで最近は、陽性になった人がTVに紹介されたりしますが、異口同音に「新型コロナを甘くみていました」という。
今一度、予防の原点に返ってみる必要があるようです。手指の消毒、マスクの着用、お互いの距離を保つこと。会食はNG。彼は「思いがけない時に」来る。
聖書の中に記されたもので「思いがけない時に」の出来事はキリストの再臨にも当てはまります。
「思いがけない時に人の子が来るからである」という聖書の御言葉を、心に覚えたい。
この日が、私の人生にとって最大の喜びの訪れとなる人は幸いです。
ハッピーサバス!

磯部豊喜
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みことばの花 210212「わが幸福のため」

みことばの花 210212「わが幸福のため」

「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後に捨てられたからである。」(イザヤ 38:17 口語訳)

上記は旧約聖書イザヤ書に登場する、南王国ユダの王であったヒゼキヤの言葉の一節です。ヒゼキヤ王は、重い病に侵されていました。
ところが涙と共に神に祈りをささげたとき、特別にその願いが受け入れられて15年ほど人生を続けることが出来ました。
彼は今でいう「皮膚がん」だったのかも知れませんが、死にかけていたのです。
彼の国は強力な軍隊を持つ敵に攻められていましたし、自身の体調もすぐれなかったのです。苦しみの渦中に置かれた。
でも彼の祈りは、この両者に克服する道を開きました。苦しみと自分では自分が敗北します。
ですが苦しみと自分の間に神を置いた時、すべて解決しました。
「主は勝利者である」という事実は揺らぐことはありません。

磯部豊喜

みことばの花 210211「忘れてはならないこと」

みことばの花 210211「忘れてはならないこと」

「その時、あなたはみずから慎み、エジプトの地、奴隷の家から導き出された主を忘れてはならない。」(申命記 6:12 口語訳)

昨日の続きになりますが、イスラエルの人々のつぶやきの原因の一つは、感謝することを忘れてしまったことです。
自己中心的な人の最大の欠点は、他からしてもらったことをすぐに忘れることです。世には忘れてよいものと忘れてはならないものがあります。
人から受けた仕打、これは忘れたい。覚えていると恨みや憎しみが心に育つ。また自分が人にしてあげたことを心にとめないが良い。
自慢や不満の種になるからです。しかし決して忘れてはならないこと。それは感謝の心です。あの方のお陰で今こうしていられること。
感謝を忘れなければ、心は平安に満たされるに違いないでしょう。不満の種を拾い集めるよりも、感謝の種を拾い集めるのです。
特に、今日も新鮮な空気を吸える。今日も心臓が動いている。今日も食物がある…。
これらは控えめな神の御業。「神様ありがとう!」と賛美して一日を始めたい。
そうすればきっといいことがあると私は信じています。

磯部豊喜

みことばの花 210211「忘れてはならないこと」

みことばの花 210211「忘れてはならないこと」

「その時、あなたはみずから慎み、エジプトの地、奴隷の家から導き出された主を忘れてはならない。」(申命記 6:12 口語訳)

昨日の続きになりますが、イスラエルの人々のつぶやきの原因の一つは、感謝することを忘れてしまったことです。
自己中心的な人の最大の欠点は、他からしてもらったことをすぐに忘れることです。
世には忘れてよいものと忘れてはならないものがあります。
人から受けた仕打、これは忘れたい。覚えていると恨みや憎しみが心に育つ。また自分が人にしてあげたことを心にとめないが良い。自慢や不満の種になるからです。
しかし決して忘れてはならないこと。それは感謝の心です。あの方のお陰で今こうしていられること。感謝を忘れなければ、心は平安に満たされるに違いないでしょう。
不満の種を拾い集めるよりも、感謝の種を拾い集めるのです。
特に、今日も新鮮な空気を吸える。今日も心臓が動いている。今日も食物がある…。これらは控えめな神の御業。
「神様ありがとう!」と賛美して一日を始めたい。
そうすればきっといいことがあると私は信じています。

磯部豊喜

みことばの花 210210「つぶやく」 

みことばの花 210210「つぶやく」 

「その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。」(出 16:2 口語訳)

出エジプト記16章は、モーセの導きによってイスラエル民族がエジプト奴隷から解放されたエジプト脱出の直後の記録です。
彼らは追ってきたエジプト軍の前におののきましたが、目前の海が開けて海の底をわたって救われました。
「そんなあり得ない」事と思われる話ですが、これは事実の物語。海の底にはエジプト軍の戦車の残骸があることを見ても明らかです。
ところで、このような奇跡を体験しても、人の心はすぐに不信仰になる。イスラエル人は、彼らの指導者モーセとアロンにつぶやいたのです。
エジプトでは奴隷ではあったが食べ物が豊富だったというのがその理由。つぶやく理由になるだろうか。
奴隷から解放されたことを感謝すればよいのに…人は目先のことでつぶやくようです。
感謝の種をもっと心に集めたいと思います。

磯部豊喜