みことばの花 200613「預言」

みことばの花 200613「預言」

「まことに主なる神は/そのしもべである預言者にその隠れた事を/示さないでは、何事をもなされない。」(アモス 3:7 口語訳)

聖書に良く出てくる単語に「預言者」という言葉とか「預言」があります。この真意は「予言」とは異なります。
「預金」の「預」という漢字が使われています。「予言」の「予」は、「予告」の「予」ですから、将来のことを指しています。
では「預言」は何かと言いますと、「神から預かった言葉」です。「預言者」は「神から言葉を預かった者」となります。
ですが相手は神さまですから、将来のことも指し示すことは得意中の得意です。
ですから漢字の「預」に「予」が入っているように、「預言」には「予言」も含まれています。
上記の御言葉は「予」を強調している内容です。神様は将来のことを含めて「そのしもべである預言者」に告げられます。
そしてその的中率は100%なのですから不思議です。
聖書の「預言」に今日も触れるために教会の扉(ライブ配信を含めて)を開いてください。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 200612「運動」 

みことばの花 200612「運動」 

「ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。」
(Ⅰテサロニケ 3:11 口語訳

新型コロナによって、運動量の減った人はいないでしょうか。少なくとも私はあまり動かなくなったような気がします。
そのような中、小さなトラクトに次の一文を発見。「長生きしする人たちの共通点は、活動的であるということです。
運動量が週に約7時間の人は、週に30分以下の人に比べて、早死にするリスクが40%低いという研究結果もあります。
運動は体の各組織に刺激を与え、生理的機能の低下を防止するなど、さまざまな病気の予防に効果をもたらす、最良の薬なのです」
(「あなたがもし100年生きるとしたら」より)。
今日からもっとストレッチとか縄跳びでもしようと自分自身の生活を反省させられました。
上記の聖句ではありませんが「怠惰こそ我が敵なり」と日々自分に言い聞かせたい。

磯部豊喜
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6/13(土)ライブ配信 URLを送ります。
安息日学校(聖書の学び)10:00 聖書をいかに解釈するか 11課「聖書と預言」磯部豊喜
https://youtu.be/OJER18TbFBg
礼拝説教11:00 「ああ、その朝」 磯部豊喜
https://youtu.be/0JvLffOATGQ

みことばの花 200611「応援の力」

みことばの花 200611「応援の力」

「ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、
わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。(サムエル上17:45 口語訳)

昨日書きました炎鵬関と少年ダビデの共通点を今一度紹介したいと思います。炎鵬が小兵ながら強いのにはもう一つ理由があると思われます。
それは炎鵬のファンの一人である和寿君という子供との出会い。
和寿君は白血病と闘っている少年。大きな治療を経て、いまは経過観察の身とのことですが、炎鵬と大の仲良しです。
少年ダビデの場合は、天の神と仲良し。自分を熱く応援してくれる存在がいることを知っていると力が湧いてくるのです。
人には心を強くしてくれる応援団が必要です。人は一人では強くなれない。
今日も私を応援してくださる方が天におられることを信じて過ごしたいと思います。
主の支えが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200610「小さくても」

みことばの花 200610「小さくても」

「時に、ペリシテびとの陣から、ガテのゴリアテという名の、戦いをいどむ者が出てきた。身のたけは六キュビト半。」(サムエル上 17:4 口語訳) 

今大相撲注目の一人に炎鵬という力士がいます。
身長168センチ、体重99キロは角界一の小兵。これまでの生涯戦歴126勝88敗(幕内戦歴は6場所で47勝43敗)は立派です。
彼は子供の頃から相撲をしていましたが負けてばかり。
転機は晃くんという先輩を見てから。晃君も細くて小さい、でも強い。決して後ろに下がらない。
晃君を手本に、彼も恐れずに前に出る相撲を取るようになり大きい人にも勝てるようになったという。聖書に登場するダビデのようです。
少年ダビデは、身の丈6キュビト半(約3メートル)の巨人ゴリアテと闘った。
そして一撃必殺の石投げで勝利しました。
ダビデの勝利の秘訣は、炎鵬に似ています。心を後ろに下げなかったことです。
前向きな心こそ勝利の秘訣なのでしょう。

磯部豊喜

みことばの花 200609「悩みの日」

みことばの花 200609「悩みの日」

「わたしの悩みの日にわたしはあなたに呼ばわります。あなたはわたしに答えられるからです。」(詩篇 86:7 口語訳)

どんなに頑張ってもどうにもならない場合があります。人間の限界といっても良いでしょう。
自分の無力を知るとき、人は悩みを抱えます。これまで人生を送る上で一度も悩まなかった人はあるでしょうか。
たびたび紹介しますが、私の車のナンバープレートは783(ナヤミ)。
自分で選んだのではありませんが、車を入手する時に、付いてきたナンバーです。牧師だって、このナンバーのように悩むのです。
私は毎週、悩んでいます。今週、どんなメッセージを準備したらいいのか…と。
ですが、不思議なことに毎週説教を語り終える度に、「神様ありがとう!無事に終えました」と心で叫ぶのです。
毎週アップアップの説教準備ですが貧しくはあれ、何とか終えています。
悩みの日、主の名を呼んでください。

磯部豊喜

みことばの花 200608「難」

みことばの花 200608「難」

「幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、」。(Ⅱコリント 11:26 口語訳) 

「バイキング」というと何を思うでしょう。いろいろな種類の食べ物が大きな皿に盛られて並んでいる食卓を思うでしょうか。
実は、6月8日は「バイキングの日」だそうです。しかしこれは793年の今日、北欧の「海賊」が登場し記録された日との事。
ところで「盗賊」は昔から存在していました。上記は1世紀のパウロの記録。
この一句には「盗賊の難」ばかりでなく「難」の多い事。この中には「都会の難」という言葉もありますが、東京都を襲う「新型コロナの難」を思います。
私どもの人生は「難」だらけ。夫婦の難、親子の難、職場の難・・・???。
パウロの場合、その「難」を常に守られたのはイエス・キリストでした。
私どもの人生の「難」を守ってくださるのも同様、主イエスだと私は信じています。

磯部豊喜

みことばの花 200607「心の苦痛」

みことばの花 200607「心の苦痛」

「わたしは卑しめられ、苦痛の中にあります。神よ、わたしを高く上げ、救ってください。」(詩編 69:30 新共同訳)

「苦痛」を好む人はいないでしょう。身体の苦痛も辛いものですが、これよりも辛いのは心の苦痛ではないかと思います。
上記の言葉の前後を見ますと、これは明らかに(著者ダビデの)心痛の叫びです。
「嘲りに心を打ち砕かれ、わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず慰めてくれる人も見いだしません」(詩編69:21 新共同訳)。
しかし上記のように叫んだことによって彼は、「神の御名を賛美してわたしは歌い御名を告白して、神をあがめます」(詩編69:31 新共同訳)と気を取り戻しています。
苦痛が襲う時、主はわたしの逃れ場です。
そのことを信じられる人は幸いです。
今週も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200606「詩篇122篇1節」

みことばの花 200606「詩篇122篇1節」

「人々がわたしにむかって『われらは主の家に行こう』/と言ったとき、わたしは喜んだ。」(詩篇 122:1 口語訳)

東京アラートという言葉が飛び交うようになりました。
緊急事態宣言が解除された途端に、感染者が再び増えてきています。
このまま増加するとまた緊急事態宣言が出てしまうと困ります。
さて、この数か月全国の教会は休会をしていましたが、徐々に集会を再開するようになってきています。
千葉教会も今日から再開です。
上記の詩篇122:1の聖句は、私の教会の週報の表に記載している聖句です。
教会が休みの間、「教会は何のためにあるのか」とずっと考えて来ました。
天の創造主なる神と交わる(礼拝する)ために教会はある。
しかしこれはライブ配信でも可能です。
では何のために、教会はあるのか。信仰共同体が教会です。「
われらは」と上記の聖句にあります。
「一緒に天国に」に教会存在の理由を私は見るのです。

磯部豊喜

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今日の礼拝説教の URLが手違いで変わってしまい、失敗しました。
下記が新しいものです。よかったらこれからの時間でも大丈夫です。どうぞご覧ください。
変更のURL https://youtu.be/8Kj-mCgAZsc

みことばの花 200605「あなたの名を」

みことばの花 200605「あなたの名を」

「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。
わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。』」(イザヤ 43:1 口語訳)

ここ数日、名前について考えましたが、自分の名と同じ名前の人と出会ったらどう感じますか。
5,6年前になりますが、私は生まれて初めて漢字は違っても同姓同名の人に出会いました。
教会の姉妹機関である東京衛生病院で、健康診断に行った時のことです。
「イソベトヨキ」さんと言う名が呼ばれて、私ともう一人の人が同時に返事をしました。同姓同名でした。
この時、もう一人の「イソベトヨキ」さんと親しくなったのは言うまでもありません。
人は自分の名前が呼ばれると嬉しいものです。ところで私の名をしっかりと間違うことなく呼んでくださる方が天におられます。
上句はその御言葉。「ヤコブ」や「イスラエル」のところに自分の名〇〇を置き換えて読んでみませんか。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜