今週のお花(12月07日)ブルーアイス、ユリ、バラ、ストック、ヒペリカム、アンスリューム、山帰来(さんきらい)、クリスマスホーリー(*塗)、ドラセナ

今週のお花(12月07日) ブルーアイス、ユリ、バラ、ストック、ヒペリカム、アンスリューム、山帰来(さんきらい)、
クリスマスホーリー(*塗)、ドラセナ

みことばの花 191207「印象」

みことばの花 191207「印象」

「イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:35 口語訳)

第一印象が実際と異なっていると耳にすることはありませんか。
私は有る方から「先生は泣き出しそうな顔をしている。
うつになったことはありませんか。」と聞かれたことがあります。
またある方から「牧師さんは、講壇の上では怖い顔をして説教をしている。
もっとニコニコして話をしませんか」と言われたことがあります。
「大きなお節介、もともとこんな顔なのだ!」と少しムッとするのですが、
第一印象で人は判断されやすいので注意しなくてはなりませんね。
ところでイエス・キリストの御顔の記録でキリストが涙を流したという記録はありますが、
キリストが笑ったという記録がないのは不思議です。
これを理由にムッツリ顔を容認してはいけませんが、周りに優しさ(表情からも)を届けられたらいいですね。
特に今日は安息日、顔の身繕いをして講壇に立たねば…!ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 191206「先走り」

みことばの花 191206「先走り」

「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。
主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。
その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」(Ⅰコリント 4:5 口語訳)

私の未熟さなのか、しっかりと確かめることなく自分の思い込みで行動をとってしまうことが時々あるような気がします。
物事を冷静に見つめていれば、事の真相を間違いなくキャッチすることが出来るのに。
これを「先走り」というのでしょうか。
「軽はずみにでしゃばること」と辞書にあります。
この「先走り」の中で良くないものは、「先走り」が「人をさばく」ことと結びつくときです。
人の意見や行動の本意を確かめもせずに、
あたかもその人の心をキャッチしたかのように勝手に解釈し「さばき」を始めてしまうことです。
人のとる良い行動も、悪く解釈されてしまうことになります。
もし「さばき」の思いが頭をもたげる時、上記の聖句を思い出したいものです。
今日も平和の神が私の心をコントロールしてくださいますように。

磯部豊喜

みことばの花 191205「生んだ」

みことばの花 191205「生んだ」

「セムはアルパクサデを生んで後、五百年生きて、男子と女子を生んだ。」(創世記 11:11 口語訳) 

上記の「セム」という人は、ノアの息子でノアの大洪水後502年ほど生きた人です。
ところで創世記5章には「彼は死んだ」という言葉を紹介しましたが、
このアダムの系図とは違って、セムの系図には「男子と女子を生んだ」という言葉が多い。
「死んだ」と「生んだ」は正反対の内容です。
アダムの多くの子孫は「死んだ」となっていますが、セムの子孫は「生んだ」となっています。
なぜ11章では「死んだ」を強調せずに「生きた」と書いていあるのでしょう。
罪を犯した(アダム)の子孫の多くは「死んだ」、ですが罪を悔い改めて神を見る人は「生きた」とでも語りたいようです。
「罪を犯すのは」残念ですが罪は人の「命を死なせ」、一方の「罪を悔い改める人」は「命を生んだ!」と私には読めるのです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 191204「死が敗北する時」

みことばの花 191204「死が敗北する時」

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(Ⅰコリント15:55 口語訳)

「神と共いまして、ゆく道を守り、愛の御糧もて、力を与えませ。
また会う日まで、また会う日まで、神の守り、汝が身を離れざれ」という讃美歌詞には、希望があります。
Sさんのご逝去は、私の心を寂しくしました。
一緒に「賛美ライブ」をした事、CD作成のお手伝いをしてくださった事。
楽しくジョークを飛ばし合った事などが脳裏から離れません。
Sさんとの関りはわずか5か月でしたが濃密なものでした。
ですが今日の聖句には励まされます。
「死が敗北する時」が来るのですから。

磯部豊喜

みことばの花 191203「いなくなった」

みことばの花 191203「いなくなった」

「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記 5:24 口語訳)

創世記5章(口語訳)に多く出てくる単語があります。それは「そして彼は死んだ」という言葉です。
「アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ。」(5:5)
「セツの年は合わせて九百十二歳であった。そして彼は死んだ。」(5:8)
「エノスの年は合わせて九百五歳であった。そして彼は死んだ。」(5:11)…と続きます。
数えて8カ所にそれが登場します。
ところが一人だけ、異なる表現が記されています。
それはエノクという人についてです。
「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(5:24)とそこにあります。
エノクの場合、「死んだ」のではなく「いなくなった」。
昨日はSさんのことを書きましたが、私にとってSさんは「死んだ」のは事実ですが、「いなくなった」という感覚があります。
ほんの少しいなくなって、またすぐに戻って来る感覚がします。
その時は、確かに来ます。キリストの再臨の時に…!

磯部豊喜

みことばの花 191202「本懐」

みことばの花 191202「本懐」

「望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。」(箴言 13:12 口語訳)

昨日Sさんの告別式を無事に終えました。
その司式をさせていただいたのですが、とても感動的な式であったと思います。
今回、告別式としては異例のご本人の声(歌)を流す機会を持ちました。
それが故人の遺言でもあったからです。
生前、Sさんの導きで「賛美ライブ」を行いましたが、その時にSさんが歌った「ありがとう」という曲です。
式の最後に喪主である息子様の「僕にとって母は最高の母です」の言葉に一同涙しました。
Sさんがもし生きていてこの告別式を見ることができたならば、まさに「本懐(本来の希望)」を遂げた式ではなかったかと思います。上記のみ言葉のように…。
本懐を遂げる人生を目指したいと私も思いました。

磯部豊喜

みことばの花 191201「上中下」

みことばの花 191201「上中下」

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイ23:12 口語訳)

「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり」という言葉は知っていました。
ところが誰がこの言葉を語っているのか知りませんでした。
12月のサインズ誌でこれが後藤新平(医師、政治家)の書いたものだと知りました。
上中下にランク付けられた内容は、なるほど納得します。
人を育てることが人生の宝だと著者はいいます。
育てられた人とそうでない者の違いはなんでしょう。
謙遜か高慢か。謙遜な人は、人をグサグサと射すようなことはしない。
自分を高くする者は、世の中の真の問題児かも知れません。
謙遜な人の心を覗けるならば、どんな文字が書かれているのでしょうか。
「低くする者」を育てる。これが真の人づくりなのでしょう。

磯部豊喜