みことばの花 190320「解釈という選び」

みことばの花190320「解釈という選び」

「マリヤはその良い方を選んだのだ。」(ルカ 10:42) 

昨日は「王を選ぶ」ということを書きました。
今日は解釈という選び。車を盗難された夫婦の話。
妻は「車の中に大切なものがある」と言って心を取り乱す。
その様子を見て夫は「ねえ君、僕たちは車を盗まれて取り乱しているのと、
車を盗まれても幸せな気分でいるのと、どちらかを選べるんだよ。
どんな態度をとるか、どんな気分でいるかは自分で決めるんだ」と言った。
車は無事に5日後に見つかった。ただ妻の大切なものはなかった。
それから一週間後に夫は、戻ってきた車のハンドルを握りウキウキ気分。
ところが前の車に追突してしまった。
多額の修理代に、保険の請求!「どうして事故なんかおこしたのか」と彼は、地団駄を踏んだ。
そこに妻が来て、「盗まれて」を「壊れて」に言い換えて夫が語った同じ言葉を語ったという。
人生、良い方(解釈)を選びたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190319「王を選ぶ」

みことばの花190319「王を選ぶ」

「それゆえ、今あなたがたの選んだ王、あなたがたが求めた王を見なさい。
主はあなたがたの上に王を立てられた。」(サムエル上 12:13)

「人生は自分の選んだ王に支配される」いう言葉を考えました。
上記のみ言葉は、「私たちには他国のように王が欲しい」と願って、王を立ててもらったイスラエル人のことが語られています。
イスラエル民族は、もとは遊牧民でしたが神に導かれてカナンと呼ぶ地方へ移住しました。
しばらくは神を仰ぐ人々がこの民族のリーダーでしたが、他国のように王を求めました。王を立てるというのはリスクが伴います。
王の技量や人格次第で国の動向、盛衰が決まるからです。
ところで私どもも日夜王を選んでいます。
神様か、自分自身か、カミさん?なのか…。ここに見えざる王がいます。

磯部豊喜

みことばの花 190318「価値観」

みことばの花190318「価値観」

「両親は主の律法どおりすべての事をすませたので、ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰った。」(ルカ2:39)

上記は、生まれて間がないイエス・キリストの両親がエルサレムに上った時の出来事です。
まだ一歳にも満たないイエス様を抱えて両親は宮に参拝し、「自分の町ナザレ」に戻りました。
「ナザレから、なんのよいものが出ようか」(ヨハネ1:46)とナタナエルという人の言葉にあるように、
イエス・キリストがお育ちになられた所は、あまり良い環境ではなかったようです。
それでも「幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった」(ルカ2:40)と記されています。
子育ては環境が大切なのは間違いありません。
ですが最高の環境は、場所以上に、家族の持つ価値観ではないかと思うのです。
神の愛のあふれる家庭にしたいものです。今日も主の恵みがありますように!

磯部豊喜

みことばの花 190317「別れ」

みことばの花190317「別れ」

「互に別れを告げた。それから、わたしたちは舟に乗り込み、彼らはそれぞれ自分の家に帰った。」(使徒 21:6) 

今日は市原市にある光風台三育小学校の卒業式に参列させて頂きました。
「会うは別れの始め」といいますが、光風台の三育小は小さな小学校で今年は6人が巣立っていかれました。
振り返ってみて私も2016年の春までは、東京三育小学校のチャプレン(学校の専任牧師)でしたので、
5年間ほど当時の6年生たちの門出を祝福してきました。
上記の聖句も「別れ」の場面です。別れたのち、「彼らはそれぞれ自分の家に帰った」とあります。
帰る家があるっていいことですね。さて私たちの人生には帰る家はあるのでしょうか。
人生で帰る家、それは天の都だと聖書は教えています。
そこでは決して別れることのない「永遠の家」があります。
この家を今からリザーブ(予約)しておきたいものです。信仰によって…。

磯部豊喜

みことばの花 190316「人の子も三日三晩」

みことばの花190316「人の子も三日三晩」

「すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。」(マタイ 12:40)

昨日のヨナの体験に合わせ「人の子」と自称されたキリストの出来事が予告されています。
上記はキリスト自らの言葉です。
「人の子も三日三晩、地の中にいるであろう」とは、キリストは十字架で死なれ三日間ほど眠られた後に、復活することを表しています。
キリストが地の中に丸一日置かれたのは、土曜日でした。
「土」は十(十字架)と一(地)の合成文字。主が唯一24時間を休まれたのが「第七日安息日」。
この主を覚えて「土曜日」を過ごしたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190315「魚の腹」

みことばの花190315「魚の腹」

「主は大いなる魚(うお)を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三晩その魚(うお)の腹の中にいた」(ヨナ 1:17) 

南アフリカの海でこの2月にサメの撮影をしていたダイバーが、クジラに飲み込まれそうになりました。
クジラは深く海へ潜ることが出来ますが、この絶対絶命の危機にクジラは「これは餌とは違う」と思ったのか、
彼をペッと吐き出して事なきを得ました。
このニュースに触れて、聖書の中に登場するユニークな話を思い出しました。
それは預言者ヨナの話。わずか3ページの短い聖書の話ですが、とても興味深いドラマがそこにあります。
ヨナの場合は、「三日三晩その魚の中にいた」とあります。
彼の不信仰を戒められる出来事ですが、神の保護もあったという。
彼が悔い改めの祈りをささげた時、「魚はヨナを陸に吐き出した」とあります。
まだ読んだことがないのでしたら是非、一度お読みください。
「神の愛」がこの書の主題です。
磯部豊喜

みことばの花 190314「関係」

みことばの花190314「関係」

「ペテロはイエスに言った、『わたしの足を決して洗わないで下さい』。
イエスは彼に答えられた、『もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる』。」(ヨハネ 13:8) 

「本当の贅沢というものは、たったひとつしかない。
それは人間関係に恵まれることだ」とサン・テグジュベリ氏(フランスの作家)は語っていますが、
イエス・キリストと弟子ペテロとの恵まれた関係づくりの一面がここに記されています。
ペテロは師であるキリストに、汚れた自分の足を洗ってもらうなんてとんでもないと拒みました。
ところがキリストはこれを拒むならば、「あなたとわたしはなんの係わりもなくなる」と言われます。
「わたしはあなたのためにしたいのだ」、この親切を拒んではならないというのです。
親切を受けるということも関係作りには必要です。
心からの親切であれば受け取って良いと思います。良き人間関係のために。

磯部豊喜

みことばの花 190313「彼の旗は愛」

みことばの花190313「彼の旗は愛」

「彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。」(雅歌 2:4)

「旗色を鮮明に」…という言葉を、私は信仰の恩師から幾度となく聞かされてきました。
どういうことかといいますと自分の立ち位置、自分は何を信じているのか、
どのような人生の指針を持っているのかを決して隠さない生き方をするということです。
しかし臆病な自分がいて、その旗を引っ込めてしまいたくなる時があります。
そのとき、上記の聖句が、私の心に迫りました。「彼の旗は愛」。
私にとってこの彼とはキリスト。キリストの「旗は愛」。
この旗色を忘れないよいうにしたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 190312「アリマタヤのヨセフ」

みことばの花190312「アリマタヤのヨセフ」

「そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、
イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。
ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。」(ヨハネ 19:31) 

昨日、私は父と妹と共に、母の遺骨を納めるため墓地に行きました。
すでに母の息は神様のもとに戻り、残されたのは小さな骨壺にある骨だけです。
母は復活を願って眠っています。
ところでキリストの十字架後に、キリストのご遺体を受け入れることを名乗り出られた人がいました。
その人はアリマタヤのヨセフというユダヤ議会の議員さんでした。
彼は公然とキリストへの信仰表明こそはしていませんでしたが、密(ひそ)かなるキリストの弟子でした。
しかしキリストの死後、自分の人生の道筋をはっきと表明しました。
人生を正しく送るためには、時としてヨセフのような決断が必要な気がします。

磯部豊喜

みことばの花 190311「つなみ」

みことばの花190311「つなみ」

「また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、」(ルカ 21:25) 

今日は悲しい記録の3・11です。
8年前のあの日のTV放送、「つなみ(津波)」によって多くの家々が流されている様子は、災害ドラマを見るような光景でした。
ですがドラマではなく現実に起きていることに絶句しました。
ですが家が流されることもですが、多くの人が流されていった。
母親の手から赤ん坊が流される光景を見てしまった人は、8年後の今でも心を痛めているそうです。
わたしも震災2か月後にボランティアで被災地に行きましたが、その惨状には声も出ませんでした。
破壊された家々をみて、ここに住んでおられた人はどうなったのかな…と。
「言わば震災後8年ではなく震災8年」という表現が新聞にありましたが、本当にそうです。
今も被災中の方々に天来の慰めがありますように。

磯部豊喜