みことばの花 181231「おおみそか=終りの日」

みことばの花181231「おおみそか=終りの日」

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、
わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。」(ヨハネ 6:54)

なんと希望に満ちた御言葉でしょうか。
今日は2018年12月31日。つまり明日から2018年は二度と訪れない。
いわゆる今日が2018年最後の日、終りの日です。
ところで聖書の「終りの日」という言葉を調べて、上記の御言葉が目に留まりました。
「終わりの日」が来ると聖書は予告しています。
上記の御言葉によれば、この「終りの日」に復活(死んでいる人の復活)があるという。
その復活の条件が記されています。それはキリストと深い関係に生きる者です。
今日もキリスト・イエスを求めつつ、2019年を迎えたいのです。
2018年ありがとう!

磯部豊喜

みことばの花 181230「みそか=残りあと2日」

みことばの花181230「みそか=残りあと2日」

「悪を憎み、善を愛し、門で公義を立てよ。
万軍の神、主は、あるいは/ヨセフの残りの者をあわれまれるであろう。」(アモス 5:15)

「去りゆく人死んでいく島」…これは今朝の新聞、第一面の巻頭言です。
内容をまとめるとこうです。瀬戸内海に浮かぶ岡山県の黒島は、本州からわずか1.5キロ。
2か月前に、黒島最後の住民のN氏85)がこの島を去ったとのこと。
実は国が指定する有人離島は255島あるとのことですが、その1割ほどが今後30年で無人になる可能性があるとのこと。
まさに残りの人の有無が島の未来を決定します。さて今日は、みそか。2018年は後2日しか残っていません。
「残り」…というのは、何か侘びしい気がします。聖書にも「残りの者」という単語が登場します。
上記はその一つです。「残りの者」を主は憐れんでくださるという御言葉です。
この地上に、仮に私一人しかいないとしても主は私を憐れんでくださるお方。
主の目に多い少ないは関係がない。今日も愛の主を見上げて歩みたい。

磯部豊喜

みことばの花 181229「その時」 

みことばの花181229「その時」 
                        
「その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。」(イザヤ35:5)

聖書が私たちに提供する世界があります。それは神様が私たちと共にいる世界です。
本当に神様は近くにいてくださるはずなのですが、人の心には、その信仰が制限されています。
この世界には、神様とは異なる価値観や方向性を持っている存在が大手をふるっています。
それを聖書では、サタンとか悪魔とか呼びます。人の心には常に二つの方向性の異なるベクトルが働いています。
一方のベクトルは、神様が示される永遠の命への価値観。
そしてもう一つのベクトルは、永遠の命などあり得るものかと決めつけ、永遠の滅びに至らせるサタンの価値観。
第七日安息日は、創造主を覚える日。この日は永遠の世界への価値観に私どもを導きます。
今日、永遠の神を見る目が開かれ、永遠の命の脈の音が聞こえますように。

磯部豊喜

みことばの花 181228「主の目」

みことばの花181228「主の目」

「主は振りむいてペテロを見つめられた。
そのときペテロは、
「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。」(ルカ22:61)

昨日の内容の続きです。
昨日、「ペテロの失態と共に、その弱さに同情される主の暖かさも聖書は記しています」というような内容を書かせて頂きました。
主イエス様の暖かさはどこに登場しているのでしょう。
その一つは、上記のみことばの中に隠されています。
ここに「主は振りむいてペテロを見つめられた」とありますが、主はどのような眼差しをもってペテロを見つめられたのでしょう。
この様子を瞑想のうちに描いた本に、次の一文がありました。
「主を三度も拒んだ。そのとき、…イエスの御目とペテロの目がぱったりと合った。
イエスの御目、それは譴責(けんせき)の目でも、うらみの目でもなかった。
『それ見よ、大きな口をききながら、愚かなやつ』というあざけりの目ではなかった。
やさしい表情のうちに、深いあわれみとゆるしの目、失敗し、あやまちを犯した子と共に
責任を分担するときの母の涙でうるむやさしい目であった。」(柴田栄治著「出会い」p81)
私もイエス・キリストのご品性を思うと、この描写は、その通りだと思います。
「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば
、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。」(マタイ6:14)とは、
主ご自身の口でお語りになられた御言葉に他ならないからです。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 181227「寒い時」

みことばの花181227「寒い時」

「僕や下役どもは、寒い時であったので、炭火をおこし、そこに立ってあたっていた。
ペテロもまた彼らに交じり、立ってあたっていた。」(ヨハネ18:18) 

年末の日本列島に寒波が襲ってくるとのニュースに押されて、聖書の中にある「寒い時」という言葉を調べてみました。
それが上記ですが、これはユダヤ教の大祭司カヤパの舅(しゅうと)のアンナスという人の所に、
捕らえられたキリストが連れていかれた場面です。
弟子のペテロは、身を張ってキリストを守ると心に念じてその場にいたと思われます(マタイ26:35参照)。
しかし門番の女中に「あなたもあの人の弟子の一人ではありませんか」と言われ、返した言葉が「違う」でした。
これを皮切りにペテロは、さらに2度も「お前はあの男(キリスト)の弟子ではないか」と質問される度に、
「それは違う」といい、彼は愛する主を否むという失態を演じてしまいます。
この時の気温は「寒い時であった」とあります。
寒い時と言うのは、体ばかりでなく心も寒くなってしまいます。
主を3度も否定したペテロ。この寒さの中で、彼は自分の志を曲げてしまった。
これが人の弱さ、ですがその弱さに同情される主の暖かさも聖書は記しています。

磯部豊喜

みことばの花 181226「十戒」

みことばの花181226「十戒」

「それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。
しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。
すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、
わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。」(ローマ 7:7)

今年は自然災害の多い年でした。ですが人的災害も多かったように思います。
改ざんとか免震装置の検査データーのごまかしとか地面師のなりすましとか…
数えると枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がない。
日本は道徳的には世界に誇れる国だと思います。
ですがその日本人の道徳性も徐々に陰りが見えているような気がしてなりません。
聖書に「十戒」があります。この「十戒」を、日本人が今一度目をとめてくれたらと思います。
ある実験で、一つのグループは高校時代に読んだ10冊を書き出させ、
別のグループには旧約聖書の十戒を思い出せる範囲で書かせました。
前者の10冊グループとは違い、十戒のグループはまったく不正をしなかったという。
興味深いことに、十戒のうち一つか二つしか思い出せない学生にも効果があったということです。
人間が道をそれないためにも天から届けられた「道徳律と呼ばれる律法(十戒)」が必要です。
「わたしは偽りを憎み、忌み嫌います。しかしあなたのおきてを愛します」(詩篇119:163)。
今の時代、「十戒」という私の行く道を守ってくれる教えをもっと心に留めねばと思うのです。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 181225「王の王、主の主」

みことばの花181225「王の王、主の主」

「時がくれば、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、
キリストを出現させて下さるであろう。」(Ⅰテモテ 6:15) 

昨日の「みことばの花」に、イエス・キリストについて聖書が記す位置について補足しておきたいと思います。
キリストは確かに「平和の君」です。
ところで天の神様には「もろもろの王の王、主の主」という呼び名があります。
これはどういう意味かと言いますと、
この世の中に存在するどんなに高貴な王や君主があったとしてもこのお方の右に出る人はいないということです。
実は、神の御子キリストについても「その着物にも、そのももにも、
『王の王、主の主』という名がしるされていた」(黙示録19:16)とあります。
キリストは神と等しいお方ゆえ「王の王、主の主」なのです。
「王の王、主の主」の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 181224「平和の君」

みことばの花181224「平和の君」

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。」(イザヤ9:6) 

昨日は今上天皇陛下85歳の誕生日でした。
戦後、昭和天皇より象徴天皇という立場になりましたが、
今上天皇は我が国日本ではとても尊敬されていますし、私も尊敬してやまぬ一人です。
それは、今上天皇陛下が「平和を愛する、平和の君」だからです。
在位中最後となる今回の誕生日の会見で、「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、
心から安堵しています」の一言をお語りになられました。
そういえば近現代4代の天皇のうち、ただ一人軍服を着ることはありませんでした。
ところで奇遇なことですが、この今上天皇在位30年間は、翌日の12月24日に、
私の信じてやまぬ神の御子イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスが続きます。
神の御子イエス・キリストについて聖書は「平和の君」と呼んでいます。
我が国において「平和の君」の記念日が二日連続続いて来たのが今年で最後になるのは少し寂しい気がします。
今日も「平和」でありますように。

磯部豊喜