みことばの花 181011「ねずみ」

みことばの花181011「ねずみ」

「主の箱、および金のねずみと、腫物の像をおさめた箱とを車に載せた。」(サムエル上 6:11)

12支はどんな動物かご存知だと思います。そしてこの中に「ねずみ」年はあっても、「ねこ」年はないことはご存知でしょう。そこから12支の最後に「ねずみ」がひと足先に入ったので、「ねこ」はそれ以来「なずみ」を追いかけるようになった…と昔、どこかで聞いたことがあります。ところで今、築地市場が閉じて、今日より豊洲市場が開かれます。このときに及んで、今心配されているのは「ねずみ」がどうなるからしい。築地は「ねずみ」王国だったという。千匹以上は住んでいるのではと言われます。ところでねずみは、とても繁殖率の高い小動物。一度のお産で6匹くらいを産む。しかもメスは年に5回以上産める。子ネズミは生まれて1~2ヶ月で大人となり繁殖できる。子ネズミは死亡も多いそうですが、繁殖率を考えると他の動物とは比較にならないスピードで増えるという。ところで聖書もなぜだか「ねずみ」は登場しますが、「ねこ」は登場していないのです。ここにも「ねこ」が「ねずみ」を追いかける理由があるのでしょうか???今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 181010「備えをせよ」

みことばの花181010「備えをせよ」

「それゆえイスラエルよ、わたしはこのようにあなたに行う。わたしはこれを行うゆえ、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」(アモス 4:12)。

今日は「備え」ということを考えて見たい。われわれはどういう時に備えるでしょうか。地震の備え、台風の備え、老後の備え…いろいろな備えがあります。私どもの人生には「備え」がという日がたくさんあります。保険などに加入して不慮の事故の備えも必要。こんな話があります。「ある村のはずれに崖があって、そこから転落する事故が相次いだ。村人たちは税金を集めて、崖の下にいくつも看護師が待機できるようにした。だが転落事故は起こり続ける。そこで彼らはさらに税金を増やして救急車を購入。それでも問題は解決されない。そこで今度は崖の下に病院を備えた。しかし転落者を助けることが難しい。」このような備えは何かが間違っています。もっと良い解決策、それは崖から転落しないように「崖に柵を作る」たったこれだけでよい。がんの備えはがん保険?ですが人は、いつか死ぬ。これについての備えは?わたしは命の与え主なる愛の神様を知ることこそ、命の備えだと確信しています。あなたは…?

磯部豊喜

みことばの花 181009「復活は、あり得ないことか?」

みことばの花181009「復活は、あり得ないことか?」

「使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。」(使徒 4:33)

使徒たちとは、イエス・キリストの12人の愛弟子たちのことです。この12人は、イエス様を敵に売り渡した後に自害したイスカリオテのユダに替わって選ばれたマッテヤを含めた12人の使徒たちで、彼らの共通点は「主の復活の証人」になることでした。つまり「イエス・キリストが本当に死者の中から甦ったのです!」と声高に自分たちの体験を証するのでした。死人が復活する…ということは、私どもの常識ではあり得ないことかもしれません。実に聖書と言うものは、人間の常識では読むことの出来ない本です。弟子たちが、「主イエス様は復活したのです」と証することを、信仰をもって受け止めるのが、実は聖書信仰です。イエス様の処女降誕もそうですし、イエス様が水の上を歩いたこと、3人の死人を復活させたことなども常識では読めない事柄でしょう。聖書の言葉を信じるか信じないかの選びが、常に聖書に向き合う時に問われます。信じる信じないの選択は自由です。ただどちらが、私の希望につながるかを考えることが大切な気がします。

磯部豊喜

 

みことばの花 181008「突如として滅びが」

みことばの花181008「突如として滅びが」

「人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。」(Ⅰテサロニケ 5:3)

千葉教会で、花田憲彦牧師による3日間の講演会が行われました。神様の愛が心に響く素晴らしい内容でした。その中の一こまですがドキッとする話です。F1レース(サーキットレース)で2台の車が衝突し、一台が転倒。運転者は助かり、運転席から脱出。しかし少し身体を痛めたのでしょう。四つんばいになって、逃げる姿が滑稽だったのか見物人たちは笑いながら指を指していた。ところがその後に別の車も衝突。何とその車の一台が火を噴いて観客席に飛び込んできた。これをビデオは捉えていた。その一台が観客席に飛び込む瞬間に、ビデオはストップ。その時の観客の姿は、危険が迫っていたにもかかわらず、指を指して笑っていた。止められたビデオの1秒後に彼らは悲惨な目にあうのです。これは他でもない、地球に住む私たち一人一人の姿かも知れません。聖書は「突如として滅びがおそって来る」と書いています。聖書は唯一、この魂の滅びから逃れる方法を教えています。それはイエス・キリストというお方のうちにあります。

磯部豊喜

みことばの花 181007「時の定め」

みことばの花181007「時の定め」

「どうぞ、わたしを陰府にかくし、/あなたの怒りのやむまで、潜ませ、/わたしのために時を定めて、/わたしを覚えてください。」(ヨブ 14:13)

10月3日(水)のことです。朝いつもの時間に車を走らせていましたらエンジンに異音が走り始めました。その音はだんだんと大きくなって行くので、家に戻らずに行きつけのディラーに立ち寄りました。朝早いので車だけ駐車場に置き、20分ほど歩いて家に戻りました。問題は、この後です。この日は袖ヶ浦での聖書研究会が予定されていました。朝の祈祷会を終えて電車で袖ヶ浦に行くには、予定時刻にはとても間に合いそうにないことに気づきました。そこで断腸の思いで、対象者の方々に休会の連絡をしました。予定が変わりました。車がない中で、今日千葉教会で何かすることがあったのか…と考えました。その時、ふっと頭にランプが灯りました。「あっ、講演会の看板を作っていなかった!」。予定外のエンジントラブルのお陰で、急ぎ看板を作ることが出来ました。それと共に5-6日に車の修理に出す予定日でもあったので、このたびのエンジントラブルは人知を超えたみ手による「時の定め」のような気がしているのです。

磯部豊喜

みことばの花 181006「変わらない日」

みことばの花181006「変わらない日」

「そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、」(ヘブル 4:6)

昨日は「変えられる人は変えられる」ということを書かせて頂きました。今度は「変えられない日は変えられない」ということを書かせていただきます。「変えられない日」とは「第七日安息日」のことです。第七日は天地万物の創造の記念日として神様によって用意されました。創造されたアダムとエバは、第七日安息日に神様との交わりに時間をさいて過ごしました。神様と交わる時に人は心に安息を持つことが出来ます。神は愛だからです。真の愛に触れる時、わたしどもの心は満たされます。上記はキリストの弟子に導かれたパウロが書いた言葉です。「安息にはいる機会が、人々になお残されている」と彼は聖書の中に書きました。8節に「もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。」と、この安息日が変えられていないことを語っています。

安息日は、天地万物が創造されたときから「第七日」でした。それは今も変わらずに続いています。では「第七日安息日」は今日のカレンダーでは何曜日なのか。金曜日の日没~土曜日日没になります。どうぞ神様との交わりをしてみませんか。※今日も千葉教会では花田牧師による講演会が用意されています。

磯部豊喜

みことばの花 181005「変えられる」

みことばの花181005「変えられる」

「というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(Ⅰコリント 15:52)

「変えられる人は変えられる」という言葉をご存知でしょうか。反対に「変えられない人は変えられない」のです。前者の「変えられる」とは、生き方の変化を指しています。これまで神様にソッポを向いていた人がその心の方向を変えて生きることです。心の正面を神様に向き合わせることです。そうすれば、地上の命を閉じる時に心配する必要はなくなります。「死人は朽ちない者によみがえらされ」るからです。今日の10月5日~10月7日まで私どもの千葉教会では3日間の講演会を行います。講師ゲストの先生は、若いときに統一原理協会というところに人生の命を預けて活動していましたが、後にイエス・キリストに出会って全く変えられた人です。その方の名は花田憲彦牧師。この牧師さんはいつもイエス・キリストを語ることに熱く燃えています。イエス・キリストが大好きなので、イエス・キリストの愛と希望を分かりやすく語ってくださると思います。総タイトルは「神様からのラブレター」。可能な人は是非、千葉教会へいらしてください。

※10月5日(金)18:30~20:00、10月6日(土)10:30~12:00、10月7日(日)14:30~16:00、の3回です。会場は、SDA千葉教会(千葉市若葉区桜木5-15-1 3F)

磯部豊喜

 

みことばの花 181004「舟を軽くした」

みことばの花181004「舟を軽くした」

「みんなの者は、じゅうぶんに食事をした後、穀物を海に投げすてて舟を軽くした。」(使徒 27:38)

9月30日の続きです。「困った時の神頼み」という信仰の世界は確かにあります。ですが、ここで一つ問う。では人間は何もしなくても良いのか。聖書はこの記録においてパウロとその一行は、ただ手を合わせて祈るだけで何もしなかったとは書いていません。パウロは、「神は、あなたがたと同船の者を、ことごとくあなたに賜っている」と告げられたと言い、「われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」と予告しました。そこで彼らは水深を測り、舟が徐々に陸地に向かっていることを知ります。その後、パウロは食事をするように勧め、上記のように穀物を海に投げ捨てて舟を軽くし、さらに錨を切り離して潮の流れのままに進ませました。やがて舟は浅瀬に乗り上げます。次には、泳げる者は海に飛び込み、その他の者は板などに乗って陸を目指します。こうして276人全員が助かりました。「穀物を捨てて、舟を軽くする」という人の行動も彼らが助かる大切な要素となっています。

磯部豊喜

みことばの花 181003「虫(2)」

みことばの花181003「虫(2)」

「しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。」(詩篇 22:6)

今日も「虫」について触れてみたくなりました。実は「無視」できない「虫」の聖句があります。これは詩篇22篇に登場する「虫」ですが、詩篇22篇全体をよく読んでいきますと、これは明らかにメシア(キリスト)についての預言です。この聖句は「ダビデの歌」と表題がありますが、ダビデ一人の経験として読むには適していません。ダビデは天からの霊感によって、やがて来られるイエス・キリストについて書いたのでしょう。例えば「わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた(心臓破裂)」(14節)とか、「彼らは互いにわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引きにする」(18節)などの言葉は、十字架に架けられたキリストの姿に合致します。その中で「しかし、わたしは虫であって…民に侮られる」とあります。神の御子が人間になっただけでも「虫」になったようなものなのですが、さらに人からそしられ「虫」のような立場に置かれる経験をします。ですが主が「虫」のようになられた事実に、「虫」ならぬ人間に永遠の救いの道が開かれたという神様の真実があります。

磯部豊喜