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みことばの花 210313「新しく生まれる」

みことばの花 210313「新しく生まれる」

「あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。」(ヨハネ 3:7 口語訳)

今日は、千葉教会&銚子教会(聖書研究会)の担当牧師として、銚子に赴く最後の安息日となりました。
銚子教会としては何年ぶるになるのでしょう。バプテスマ(洗礼)と言って、愛の神に人生をささげて新しい人生の出発をする方々が3名おられます。
牧師としてこんなに嬉しいことはありません。バプテスマはイエス・キリストとつながって生きることの表明です。
天地万物の創造主を信じ、このお方に自分の人生をゆだねるスタートです。
これまでの自己中心の人生にサヨナラを告げ、神の導かれるままに人生をおまかせします。
これを悔い改め(生き方の向きを変える、神に心を開いて歩む)とも言います。
ですから「新しく生まれる」ことができます。真に幸せな人生に進むことができます。もはや自分にのみ頼り、頑張らなくて良いのです。
救いの神が私の人生の拠り所になるのです。

磯部豊喜

みことばの花 210312「春風、秋霜」

みことばの花 210312「春風、秋霜」

「しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。」(ヤコブ 4:12 口語訳)

幕末の儒学者、佐藤一斎(さとういっさい)の言葉に「春風(しゅんぷう)をもって人に接し、秋霜(しゅうそう)をもって自ら粛(つつし)む」というのがあります。
「春風接人、秋霜自粛」とも書きます。この意味は「人に対しては春風のように優しく爽やかに接し、自分自身に対しては秋の霜のように厳しく行動をただす」という。
「厳しく追及他人の誤ち、笑って過ごす自分の過ち」とは正反対です。果たして私はどうか…と自問。最近の春風は、花粉が混じって息苦しい。
ですが他者に対し花粉(息苦しさ)のない真に優しい春風を届けたい、そして同時に秋霜のように厳しく自己を見つめる、そういう人になりたいと思う。
今朝、上記の御言葉を眺めてそのように教えられた気がします。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜
・・・・・・・
3月13日(土)ライブ配信 URL です。
安息日学校 URL 3月13日(土)10:00 聖書の学び(わが民を慰めよ)第11課「行動する愛」渡邊邦男(千葉教会長老)
https://youtu.be/hljK2hNlS0g
礼拝説教  URL 3月13日(土) 11:00 説教題「イエスのたとえに見る神の愛」金田寛子(千葉教会長老)
https://youtu.be/2UeWGFpPEKU

 

みことばの花 210311「あれから10年」

みことばの花 210311「あれから10年」

「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。
あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。」(黙示録2:10 口語訳)

今日は2021年3月11日。だとすると10年前は東日本大震災のあった2011年3月11日になります。
あの日、私はこれから行く予定の大岡山教会において大岡山教会を去る荷物の中にいました。
今年は大岡山教会に異動するために東京の自宅に戻る荷物の中にいます。
あれから丁度10年が経っていて、この人生の流れは不思議なものを感じます。
上記聖句は十日の間の苦難のことが書かれていますが、これは黙示録の預言ですから、10日は10年に置きかて解釈することもできます。
10年は長いようで短いと思います。長かろうが短かろうが、大切なことは「忠実」に生きること。今日という日、忠実に誠実に生きる。
主はそのような人に「いのちの冠」を与えてくださるということを覚えたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 2103010「別れ」

みことばの花 2103010「別れ」

「さてパウロは、なお幾日ものあいだ滞在した後、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向け出帆した。プリスキラとアクラも同行した。」(使徒 18:18 口語訳) 

別れは出会いのはじめ、出会いは別れのはじめ、というのは真実だと思います。
先月、辞令を頂きボランティア牧師の継続と異動が決まり、私は慣れ親しんだ千葉教会を離れ、東京(自宅)に戻り、大田区にある大岡山教会に通うことになりました。
上記はパウロの宣教旅行での一コマ。「別れを告げる」点では同じです。
私の場合の同行者は妻です。引っ越し日は来週の水曜日となり一週間後。ですが3月20日、27日の安息日は東京から千葉へ通います。
私は新しい出会いが好きです。大切な人が増えるからです。しかし出会いは別れの始まり。
ですが、この地上で築かれた絆は最終的には天国へ持ち越されます。
ここにキリスト者の喜びがあります。

磯部豊喜

みことばの花 210309「先取信仰」

みことばの花 210309「先取信仰」

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル 11:1 口語訳) 

「まだ事が起きていないのに、あたかもそのようになると確信し振る舞う」ことを先取信仰(さきどりしんこう)と言います。
先取信仰は、私どもの人生を送る上で人生を明るくします。事実、本当に結果も良い。ですが、自分の人生を暗くする先取もあります。
それは「まだそうなると確定したわけではないのに、あたかもそうなるかのように悲観的想定をして振る舞う」。
こういうのは、別名、「取り越し苦労」とも呼びます。まだ悲しい出来事が起きてはいないのに、あたかもそうなるに違いないと思い込み(信じ込み)悩む。
これも信心という点では似ていますが、まったく正反対の生き方。果たして私はどちらの信心を選ぶ傾向があるでしょう。
「先取信仰」か「取り越し苦労信仰」か。私は前者を選んだ方が良いと考えています。
少なくともキリスト信仰は「先取信仰」を助けてくれます。
神の愛と最善を信じるからです。

磯部豊喜