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みことばの花 210318「アブラハムの引越し」
みことばの花 210318「アブラハムの引越し」
「テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、
ハランに着いてそこに住んだ。」(創世記 11:31 口語訳)
私の調べたところ、アブラハムの引越しは次のようです。
カルデヤのウルより出発、ハラン、カナンのシケム、ベテルの東の山、ネゲブ、飢饉でエジプトに寄留、再びネゲブ、ベテルの東の山、
ヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわら、ネゲブのカデシとシュルの間(ゲラル)、
ベエルシバ、ヘブロンのキリアテ・アルバ(妻サラの死、ケトラと再婚、彼もここで死ぬ)。
アブラハムは、神に導かれ東の国(カルデヤのウル)を出立し、カナンの地方を歩き回り、最後はヘブロン(これまで12か所)で亡くなった。
その旅の初めはウルからハランでした。しかしハランで最初のつまづき。カナンが神に示された地でしたが、父テラはそこで定住しここで亡くなった。
これをハラン信者という。アブラハムにとってこの世は寄留地。しかし寄留地が定住地になってしまうことの戒めとしてハラン信者と呼ぶ。
私の人生の目指す地はどこでしょうか。
磯部豊喜
みことばの花 210317「完成者」
みことばの花 210317「完成者」
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル 12:2 口語訳)
時々、「自分の心は自分できれいにする以外にない」と考えます。ですが今日、引っ越しを直前にして考えました。引っ越しには業者を依頼します。
その道のプロです。ド素人の私よりも、手際よくきれいに片づけてくださることでしょう。
今日私のできることは、このプロの手さばきをただ仰ぎ見ること。これは上記の聖句にとても良く似ています。
人の心の中の片づけをしてくださるプロはイエス・キリスト。そうです、イエスという名の「人の心の整理整頓をしてくださる方」がおられる。
聖書はこのお方が「信仰の導き手であり、完成者」であると書いています。
ゆえに私自身の心を変える時の私の役割は、十字架の上のイエスをひらすらに仰ぎ見つつ、走ることなのだと思います。
主の恵みが今日もありますように。
磯部豊喜
みことばの花 210316「掃除したはず?」
みことばの花 210316「掃除したはず?」
「帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。」(ルカ 11:25 口語訳)
いよいよ明日引越しです。そこでまた掃除の話。今日が正念場です。狭いところから広い所へ越すのは楽。
ですが今回は広いところから狭い場所へ越します。そこで苦慮します。ガンジーの持ち物は身の回り程度だと言います。
またイエス様の持ち物は服さえもはぎ取られたのでもっと少ない。私はと言えば、やはり荷物は多い。
ところで上記聖句は、掃除の話です。この家は、人の心をたとえている。自分の心掃除を試みることは良いのですが、なぜだかその心の家には、自分以上に悪い霊が入って中に住み込むので、その人の状態は悪くなったという。
これは人の心の掃除は自分では本当はできないことを教えているのだと思います。
人の心はきれいにしたと思っていても、すぐにゴミが舞い戻ってきて汚くなります。
人の心を真に美しく掃除できるのは神(キリスト)以外にない…ということをこの聖句は教えているのでしょうか。
磯部豊喜
みことばの花 210315「片付け」
みことばの花 210315「片付け」
「また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、
それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。」(ルカ15:8 口語訳)
「片付けが嫌いなの?」と妻にやさしく言われます。引っ越しの時には、特にそうです。「片付けは嫌い」というのは半分当たっています。
ですが正解は「嫌いなのではなく苦手なのです」。最初は取っておくもの、捨てる者をきっちりと分ける事が出来ますが、やがて一緒に箱に詰め込む始末。
結局荷物は軽くならず。ゴミはこうして毎回持ち越されます。今回の引っ越しも最終的にはそうなるかも知れません。
上記の女性も「片付けが下手」なのでしょうか。大切な銀貨を無くしてしまい「家中を掃かないと」見つからないようです。
この聖句はたとえ話ですから、その本意は失われた銀貨は神様の宝物である私どもを指し、これを見つけたら神の御使いたちに喜びがあると記されています。
こういうお宝大発見の片付けでしたら良いのですが…。
主の愛が今日もありますように。
磯部豊喜
みことばの花 210314「救われる人」
みことばの花 210314「救われる人」
「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(マルコ 16:16 口語訳)
キリスト教の救いの定義は、「罪と死からの救い」です。俗にいう「家内安全心願成就」というたぐいの救いとは、根本的には内容が異なっています。
家の中が安全であることは良いことですし、心に願うことが適えられることも素晴らしいことでしょう。
ですがそうであっても、人生の終焉にあるものは「死」。この「死」を克服する唯一の教え(約束)が聖書に記されています。
聖書によれば「死」は侵入者。「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、
こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ」(ローマ5:12 口語訳)とある。
この「死」の原因である「罪」を処理するために神の御子イエス・キリストが来られて十字架にかかって死んでくださった。
そして命を保証すべくして復活されました。
このキリストを信じてバプテスマを受ける者は、罪が赦され、永遠の滅びから救われて永遠の命を受け継ぐことができるのです。
今週も主の恵みがありますように。
磯部豊喜