みことばの花 200713「聖と俗」

みことばの花 200713「聖と俗」

「…あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。…」(ヨハネ15:19 口語訳)

キリスト者というのは、イエス様によって「この世から選び出されたので」、俗(この世)の中にあって聖を求める人なのだと思います。
聖(神の世界)を追求することは良い事。
ですが聖を追求するあまり、俗の世界に無関心という…のは避けたい。
要は聖にして俗の人を理解する、そう人になれたらと願っています。
たとえば自分自身は酒を飲まずとも酒を飲む人の心や痛みを理解する。
そういう人になりたいと私は願うのです。
俗からの出身者として、世捨て人になるのではなく、世の光になれたら本望です。
今日も主の愛に包まれますように。

磯部豊喜

みことばの花 200712「友」

みことばの花 200712「友」

「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。」(箴言 18:24 口語訳)

「みことばの花」の読者の一人の方から、「私は先生を『牧師』と言うより『友人』として接している気がします。
私は『磯部牧師』の『俗っぽい部分』が好きです。
牧師である以前に、『ただの人間』であって欲しいと思ってしまいます」という、有難き言葉を頂戴しました。
「牧師」は「聖人と呼ばれる」のがふさわしいのかも知れませんが、私の場合は高嶺の花。
普通の人間だけれどイエス・キリストを心から慕う、そういう「牧師」があってもいいと思っています。
キリストはその弟子たちに対して「わたしはもう、あなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。
わたしはあなたがたを友と呼んだ」(ヨハネ15:15 口語訳)と言われています。
私は「キリスト信者」という言葉よりも「キリストの友」という言葉が好きですし、これは人生の目標です。
まず出会う方々と「兄弟よりもたのもしい友」となれたら嬉しい。
さらに私を友と呼んでくださる方が、キリストの友にもなってくださればなお最高です。
今週も主が「みことばの花」の読者の傍にいてくださいますように。

磯部豊喜

みことばの花 200711「福音は…」

みことばの花 200711「福音は…」

「この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。
御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、」(ローマ 1:2 口語訳)

「福音」は原語のギリシャ語では「エウアゲリオン」と言い、「良き知らせ」を意味します。
人生に行き詰った時、ストレスで心身が苦しくなった時、命が危うくなった時、そのような状態から、ホッとした安らぎを得ること、これが福音です。
さて、上記は、「福音」とは何かを教えます。「福音は…御子に関するもの」と書いています。
聖書が語る福音は、「御子」すなわちイエス・キリストを知ることです。
イエスとは「罪から救う」、キリストは「救世主」を意味します。
今日は第七日安息日。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28 口語訳)と言われた主にお会いする日です。
ハッピーサバス!
※本日千葉教会は、ゲストに柴田俊生牧師(SDA教団総務局長)をお迎えしています。

磯部豊喜
・・・・・・・
本日7/11(土)のライブ配信URLです。 ※過去のメッセージはSDA千葉教会ホームページ(http://sda-chiba.org/
より視聴できます。
安息日学校URL 7/11(土) 10:00
https://youtu.be/id5TB18qQJs
礼拝説教URL 7/11(土) 11:00
https://youtu.be/231h_L5odRg

みことばの花200710 「苦しみを越える」

みことばの花200710 「苦しみを越える」

「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」(ローマ 8:18 口語訳)

今、心身に苦しみを抱えている人はいませんか。その人にとって打って付け(ぴったりあてはまる)の聖句がこれです。
「この苦しみがずっと続く…」と考えると、人はそこから逃げ出したくなることでしょう。
しかし神の視点で「苦しみ」を考えると良いのです。
それは 第一に、苦しみはいつか過ぎ去る。
第二に、人に耐えられない苦しみを神は決して許されない。
第三に、苦しみの向こうには必ず最善の出来事が待っている。
特に第三の事は、心に刻んでおきたい内容です。
「やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」という言葉は、実に堅い約束なのです。
苦しみは必ず越えることが出来ます。

磯部豊喜

みことばの花 200709「自分を知る」

みことばの花 200709「自分を知る」

「『無知をもって神の計りごとをおおう/この者はだれか』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、/みずから知らない、測り難い事を述べました。」(ヨブ 42:3 口語訳)

BC6世紀前半のギリシャの哲学者の一人にターレスという人がいます。
この人は、あるとき弟子と星を観察しながら歩いていて、溝に落ちてしまった。
その際に呟(つぶや)いたとされるのは「自分自身を知れ」だったと言います。
自分のことだから自分を知っていると思い込んでいる。ですが自分さえも知らないのが人間だと彼はいう。
上記の御言葉は、自分さえも知らぬ人間が、「神を知るなんぞなぜできるだろうか」というヨブの反省の言葉です。
神を知ることは神ご自身の啓示(聖書)がなければ理解できません。
ですが書物(聖書)も、自己流に解釈すると混乱します。
ゆえに聖書を開くときは、謙虚に「神様、教えてください」と祈りつつ読み、聞くのです。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 00708「男と女」

みことばの花 00708「男と女」

「しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。…」(マルコ 10:6 口語訳 )

これまで何事も感じることなく読んでいた聖句ですが、今年のサインズ7月号の「男と女の違いを知れ」(著者:石井希尚)という記事を読み、
妙にこの聖句の深みを感じています。
その冒頭には「男と女の間には、古今東西すれ違いが絶えません。
それは、男と女が別の星からやってきた宇宙人だと思えるほど、全く違う生き物であるがゆえに起こることなのです」とあり、
男女の基本的な違いを分かりやすくまとめています。
両者の典型的な違いの一つが、男性は「達成願望」が強く、女性は「共有願望」が強い。
さらに女性は言語中枢が発達しているので会話を求める。男は優先度の低い内容のものは聞き流す傾向がある。
「言ったじゃない」「聞いていないよ」という会話。まさにこれは我が家の会話です。
要は、男女の違いを認め合うことが大切とのこと。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200707「箱舟に入った」

みことばの花 200707「箱舟に入った」

「ノアは子らと、妻と、子らの妻たちと共に洪水を避けて箱舟にはいった。」(創世記 7:7 口語訳)

今日は1年に1回の7月7日。この日には私どもの教団では朝7時~夜7時まで断食祈祷が奨励されています。
言い換えるならば、朝7時~7時まで神様との交わりに特別に招かれている12時間ということになるでしょう。
「あっ、すでに7時を過ぎて食事をしてしまった」と言う方もあると思います。
しかし断食祈祷は強制ではありません。可能な方は朝食後12時間、食を断ち、水だけで過ごしてみる。
上記は、創世記の7章7節。今日にピッタリの聖句だと思いました。
真の心の箱舟は神様。洪水はこの世の災禍。今日は主を覚えて特別に12時間を過ごしたいものです。
主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200706「孫」

みことばの花 200706「孫」

「孫は老人の冠である、父は子の栄えである。」(箴言 17:6 口語訳)

昨日、ようやくコロナ禍によって会うことが妨げられていた初孫(孫娘)に会うことが出来ました。
しばしば「孫は子よりも可愛い」という言葉を耳にします。
直接に会うまでは、他の赤ん坊と大差ないとの思いがありましたが、実際に会ってみるとやはり違う。
「可愛い~」とか「めんこい」とかを連発したくなる。そしていつの間にか、爺バカになっている自分…。
ここまで書いて、ハッと「そうか、自分はお祖父さんになっていたのか」と我に返ります。
さて「孫は老人の冠である」と聖句にあります。
ピンと来ないので、リビングバイブルという聖書を見てみますとここには「孫は老人自慢の種、父親は子供の尊敬の的です」とありました。
「孫は老人自慢の種」も良いですが、将来、孫が自慢できる祖父になりたいと思いました。
また新たな人生への挑戦の始まりです。
今日は爺バカにて失礼しました!

磯部豊喜

みことばの花 200705「元気をだしなさい」

みことばの花 200705「元気をだしなさい」

「すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ』と言われた。」(マタイ 9:2 口語訳)

「また巣ごもり?戸惑い」という小見出しが今朝の新聞にありました。内容は「都外への自粛要請」とのこと。
昨日の東京都の新型コロナ感染者数は131人、全国では274人になっています。不安が日本中に広がりつつあります。
こういう時、上記の中風の人に語られた主の御言葉は、私どもの聞きたい言葉です。
「しっかりしなさい」という言葉は「元気をだしなさい」とも訳されます。
このみ言葉は、単なる言葉ですが、人に勇気と免疫力を増してくれる言葉ではないかと思います。
主イエスのみ言葉を集めてみて思いますが、その多くの御言葉は励みに満ちています。
人が失望や落胆のただ中にあって、前向きな言葉が実に多い。
私たちも安易な言葉は避けつつも、前向きな言葉を語って行けたらと思います。
互いに主を見上げて「元気をだして」歩みましょう!
主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200704「神の武具④」

みことばの花 200704「神の武具④」

「また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。」(エペソ 6:17 口語訳)

「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」と聖書は教えます。
悪魔の攻撃対象は私たちの心。人の心に罪を犯させて失望に追いやる。
そうならないために「神の武具を身につけよ」とパウロは勧めます。
「真理の帯」「正義の胸当」「平和の福音の備え」「信仰の盾」に続き、「救いのかぶと」「御霊の剣」があります。
兜(かぶと)は「頭」を守ります。「人の心」はどこにあるのか、それは頭にあります。心の発信地である頭が救われることが必要です。
「剣」は攻撃的な武器。ですが自分を守る役割も持ちます。
キリストが悪魔の誘惑にあったとき、「こう書いてある」と「聖書の言葉」を掲げて応戦し、勝利されました。
今日は第七日安息日、日々迫って来る心の戦いに備えて「神の武具」を身に着けたいと思います。
ハッピーサバス!

磯部豊喜