みことばの花 200114「とりえ」

みことばの花 200114「とりえ」

「悟りは人に怒りを忍ばせる、あやまちをゆるすのは人の誉である。」(箴言 19:11 口語訳 )

「とりえ」は漢字では「取柄」とか「取り得」と書きます。
それは「長所」のこと。
昨日、久しぶりに実話を扱う「スカッとジャパン」という放送を見て心にグッとくる一コマがありました。
新入社員Aさんに事ごとく説教をする女性上司の話。
上司は常にAさんに「笑顔をつくれ」を指導。ある日Aさんが、ミスでお客様についての書類を汚してしまう。
困っていたAさんを見ていたB先輩がその失敗を隠すように勧める。
Aさんの弱みをつかんだB先輩は、Aさんの仕事の成果を横取りし成績をあげる。
後にそれが上司に分かる。
Aさんが謝った時に上司は、「会社の損失はあなたの笑顔がなくなったこと、笑顔はあなたのとりえ、私はあなたに期待している」と言って責めない。
この上司の愛の深さに感動させられました。
「あやまちをゆるすのは人の誉である。」

磯部豊喜

みことばの花 200113「私の自分史③~心の憂い」

みことばの花 200113「私の自分史③~心の憂い」

「心に憂いがあればその人をかがませる、しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。」(箴言12:25 口語訳)

私の父(生みの親)が、ギャンブルにはまってしまったのには私の憶測に過ぎませんが、
その一つに戦争からの帰還兵だったことが考えられます。
父は戦地へ送られて、父の部隊は父一人を残して全滅したと聞いたことがあります。
戦友をかの地に残して帰還した人の思いは、理解し難い。
その心の憂いが父の人生を狂わしたのかも知れません。
父は戦地より帰還後、結婚をして母との間に四人の子を儲けました。
私はその四番目の子(姉2、兄1)でした。
ですがよくよく考えて見ますと、もし父が全滅部隊と共に倒れていたら私たちは生まれて来なかったことになります。
命は不思議。私にとっては、その背後に神様の存在を感じています。

磯部豊喜

みことばの花200112「私の自分史②~生みの親」

みことばの花200112「私の自分史②~生みの親」

「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。」(イザヤ 49:15 口語訳)

私が小学校に入学した時、私の生みの母は家にはいなかったようです。
ですから入学式は、一番上の姉に引率されて行った記憶が残っています。
なぜ母はいなかったのか。それは父(生みの親)にいくつかの問題があったことを知ったのは大人になってから。
父は今でいうギャンブル依存症だったような気がします。
父は子煩悩な人でしたから、私個人は悪い印象を持っていません。
当時、父の仕事はフウテンの寅さんのような露天商(物売り)。
とても販売力があったようですが、稼ぐとすぐにパチンコやボートレースに。
そのような父でしたから、家は常に貧しく、母は子らを捨てて家出をしてしまう一因になったのではないかと思います。

磯部豊喜

みことばの花 200111「つるぎをあげず」

みことばの花 200111「つるぎをあげず」

「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。
こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、
国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。」(イザヤ2:4 口語訳)

今不穏な空気がイランと米国に流れています。
拡大戦争にならないように祈る必要を感じています。
上記の聖句が両国に、いえ世界を包むように願います。
上記の御言葉の完全成就は天国の到来の時。
今日は第七日安息日、どんなに世界の空気が濁っていようとも、主の愛という御翼の陰に憩える日が安息日。
ハッピーサバス(幸せな安息日を)!

磯部豊喜

みことばの花 200110「不正の富」

みことばの花 200110「不正の富」

「またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。
そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。」(ルカ 16:9 口語訳) 

今、社会の関心を包んでいる一つの出来事はカルロス・ゴーン氏の国外逃亡とそのスピーチです。
審判中にもかかわらず国外逃亡をしたことは支持できませんが、彼の日本脱出劇は、驚きました。
ですがこれも協力者あってのこと。ゴーン氏の交友関係の広さと資金力が底にあるようです。
そこで思い出したのが上記の聖句。
「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」。
これはキリストの例え話ですが、命がけずられる時、助けとなるのは何かを教えています。
「不正な富?」は解釈に悩む言葉ですが、何よりも命を守ることの重要性をこの例えは語っています。
ここでは「永遠のすまい」の命を得ることが大切だと教えているようです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200109「死が全人類に」

みことばの花200109「死が全人類に」 *筆者注(ひとりの人=人祖アダム)

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、
こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ローマ 5:12 口語訳)

昨年12月1日Sさん、12月27日Oさん、そして今年1月5日Sさんご夫妻、1月9日Nさん、これは葬儀の日取りです。
そしてまた、一昨日また一人の大切な方がしばしの眠りに就かれました。葬儀は1月12日になります。
ここ一ヶ月半で6人もの方々を見送ることになります。
これまでの任地において私は比較的葬儀の少ない牧師でした。
これまでの約40年間、私の担当した葬儀は2年に一回、あったかどうか…。
今、私の脳裏に上記の聖句が身に染みます。
しかし死は、新しき命の始まり。
聖書には、死を越える命の希望が約束されています。
主の愛が今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200108「私の自分史①…私は何者?」

みことばの花 200108「私の自分史①…私は何者?」

「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」(詩篇 8:4 口語訳)

私は牧師になるまで、ユニークな人生を歩いてきました。
まず今日は、私という人間の育った背景をご紹介したいと思います。
私の生まれは葛飾柴又、姓は車、名は寅次郎ではありませんが、生まれは山口県下関、姓は泉、名は豊喜でありました。
しかし「泉」という姓を名乗って生きて来たのは、わずか6年間。
小学校1年生の時に養子縁組によって「磯部」と名乗るようになりました。
どうしてこういうことに…。
ところで「私は何者?」なのか。
大人に成長するにつれ、このような問いかけをしながら生きて来たような気がします。
しかしこれは私ばかりではないと思います。
上記の聖句の「人」や「人の子」を私と置き換えて読んでみてはどうでしょうか。
「私は何者なので、これをみ心にとめられるのですか…」と。
神のみ心にとめられない人は一人もいないのです。

磯部豊喜

みことばの花 200107「このようなことは」

みことばの花 200107「このようなことは」

「…このようなことは昔からあったことがなく、後の代々の年にも再び起ることがないであろう。」(ヨエル 2:2 口語訳)

一昨日(1月5日)のこと。

私は先に1月2日に起きた出来事(早朝に妻が亡くなり、
その亡き妻の写真を見て淋しさと悲しみのうちに後を追うようにその夫も夕方に心臓が停止して亡くなった)を受け、
そのご家族のご意向によりこの家族との関りがあった私が、送り人の一員としての役割を担うことになりました。
式は火葬式のみでしたが、母がクリスチャンでしたので司式をさせていただきました。
夫婦の棺(二体)を前にして、司式をするのは初めての体験です。
事故とかで同時に亡くなったのではないのです。
私自身にとってはまさに上記の聖句のような経験です。「このようなことは」二度とないと思います。
昨年の暮れは、同一日に葬儀と結婚式の司式をしたり、「このようなことは」二度とないであろう体験をさせられています。
本当に私たちは「明日のことも分からぬ身」であることを実感します。

磯部豊喜