みことばの花 190706「ベリアル」

みことばの花190706「ベリアル」

「キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。」(Ⅱコリント 6:15) 

聖書を開き読むときに時折、意味の分からない単語が出てきます。
しばらくこの分からない言葉を見つめてみたい。
今朝は「ベリアル」。これが千葉教会の集会で話題になりました。
「いったいこれは何者だ?」と。
旧約聖書では「ベリッヤアル」に相当し、「悪い者」とか「よこしまな人」という意味になる。
祭司エリの息子たちがそのような人でした。
「ベリアル」の本体は、神の敵である「サタン(悪魔)」です。
私は「ベリアル」の仲間になりたくはない。
人はいつしか「キリストに属する者」になるか、あるいは「サタンに属する者」になるかを選ばなくてはなりません。
今日は主の日である第七日安息日、良き選びをしたいものです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190705「今日が最後の日」

みことばの花190705「今日が最後の日」

「それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。」(ハガイ1:5)

車のハンドルを握ることはとても怖いことです。
「注意一秒、ケガ一生」ならまだしも「絶命」もあり得る。
ですから私は祈らずにハンドルを握らない日はありません。
それでも人の命はいつ断たれるのか分かりません。
それゆえに後悔のない生き方が、日々問われているような気がします。
<ジムが最後に母に語った言葉。「ハーイ、ママ!愛しているよって言いたくて電話したんだ。
もう仕事に行かなくっちゃ。じゃあね!」20歳のジムはこの日、交通事故で亡くなった。
(こころのチキンスープ2集より)>ジムの言葉には母への愛がこもっています。
「今日が最後の日」ならば、どんな言葉を人に送り、どんな行動を取るでしょう。
何よりも、愛を伝えることを日課としたいものです。
このジムのように。今日も主の愛と守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190704「クリスチャン③」

みことばの花190704「クリスチャン③」

「しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。
かえって、この名によって神をあがめなさい。」(Ⅰペテロ 4:16) 

これは「キリストに属する者」という意味を持つ「クリスチャン」という呼び名が書かれている三つ目の聖句箇所です。
人生にはいろいろな種類の苦しみがあります。
自分が失敗して苦しみを背負うとか、自分が外れた道を歩んだために苦しむとか…。
これとは反対に、正しく生きて苦しむこと、キリストを信じるゆえに苦しむ場合もあります。
ペテロという人は、その両方を味わった人物です。
前者は自分自身に責任があります。
ですが、後者は他者に非があります。
ですからペテロは自分の体験を通して、「クリスチャンとして苦しを受けるのであれば、恥じることはない」と語ります。
苦しみを味わう時、この苦しみの出どころを点検したい。
心に責められることのない生き方をしたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190703「クリスチャン②」

みことばの花190703「クリスチャン②」

「アグリッパがパウロに言った、『おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている』。」(使徒 26:28)

「クリスチャン」という言葉が登場する二つ目の聖句箇所です。
キリスト教徒に対して元迫害者であったパウロは、改心後に口を開けば「キリストが人類の罪を背負って十字架にかかって死んだこと、
その死者の中から復活されたこと」を熱い心で説き始めました。
上記はかつてキリストを抹殺しようとしたユダヤのヘロデ大王(マタイ2章)の曾孫アグリッパ王の前に立ちキリストを伝えた場面です。
このアグリッパの言葉が気になります。
「わたしをクリスチャンにしようとしている」ではなく、「クリスチャンになります」と答えたら良かったのにと…。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190702「クリスチャン①」

ことばの花190702「クリスチャン①」

「彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。
ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。
このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。」(使徒 11:26)

「イエス・キリストを信じその教えに素直に従う人」のことを一般に「クリスチャン」と呼びます。
「クリスチャン」は今日、世間では良く知られる呼び名です。
ところがこの言葉が聖書の中に登場するのは、わずか三カ所です。
上記はその一つで、クリスチャンという呼び名のルーツとなる聖句です。
原語では「クリスティアノス」で「キリストに属する者」という意味です。
当初、この言葉は嘲笑交じりの呼び名だったそうです。
ですがキリストの弟子たちは、かえってこの呼び名を好んで用いるようになったと言います。
弱さや欠点を持ちつつも、名実共に「キリストに属する者」になりたいと願い今日もスタートです!!

磯部豊喜

みことばの花 190701「予定は未定」

みことばの花190701「予定は未定」

「ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、」(ルカ 10:33)

「予定は未定」という言葉があります。
聖書の中に「良きサマリヤ人」というキリストの語られた例え話があります。
この話の中に自分の予定を変えなかった人と変えた人がいます。
ある人が道中で追いはぎに襲われて、半殺しにされます。
そこを通りかかった祭司(牧師のような立場の人)やレビ人(教会の役員のような立場の人)。
この人々は、道中でこの半殺しになった人を見ましたが自分の予定を変更せずに素通りして行きました。
しかし次に通りかかったサマリヤ人は自分の予定を変更し、この人の介抱と救済に多くの時間を使ったという。
今、何が一番大切なのか…。瞬時に判断できる愛の人になりたいものです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190630「やつがしら」

みことばの花190630「やつがしら」

「こうのとり、さぎの類。やつがしら、こうもり。」(申命記 14:18)

先日「こうもり」騒動の話をしましたが、上記の聖句にある「やつがしら」という言葉が気になりました。
「やつがしら」というと、何を浮かべますか。私には根菜の「やつがしら」が浮かびます。
ある日のこと、皇居でこんな会話がなされた。
昭和天皇が「やつがしらを見たいから双眼鏡を」と命じたところ侍従は「お芋を見るのに双眼鏡がいるのですか」と聞き返したという。
「やつがしら」は頭には広げると扇状になる冠羽がある美しい鳥の名でもあります。
「やつがしら」を見ると、これも神様の創造のみ手のすばらしさを実感します。
主の愛のみ手が今日も注がれますように。

磯部豊喜

聖句カード ( あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、 試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 (第一コリント10章13節 口語訳))

聖句カード

あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、
試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 (第一コリント10章13節 口語訳)