みことばの花 190604「ありのまま」

みことばの花190604「ありのまま」

「彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。」(ルカ 24:37)

キリストは死人の中からよみがえりました。
私は聖書の記述は「ありのまま」書かれていると今は信じていますが、初めからそうではありませんでした。
しかし聖書を読めば読むほど、聖書の記述が少しずつ「本当のことだ」と信じられるようになりました。
その理由の一つが、聖書は決して「誇大宣伝はしていない」ということです。
今の私たちの思いを等身大に書いているということです。
上記はキリストの復活後の描写の一こまです。
よみがえったイエス・キリストを目前に見て、「彼らは恐れ驚いて」とありますが当然です。
その当時の様子を「ありのまま」書いている。
何の脚色もないと私には読めるのです。

磯部豊喜

みことばの花 190603「奇跡」

みことばの花190603「奇跡」

「盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。」
(マタイ 11:5) 

常識でない不思議なことが起こることを奇跡といいます。
実は、上記はイエス・キリストの話です。
この一句を見てどのように感じるでしょうか。
今日の医療の進歩は目まぐるしく向上し、上記のようなことは奇跡ではなくなっています。
ですがそれでも限界はあります。
ですから現代医療では果たし得ない出来事が起きた時に、初めてこれは奇跡だと断定されるでしょう。
例えば、交通事故で骨もバラバラになった人が、
祈りの結果、翌日に元の骨に戻っているとしたら…、心配停止で数時間を経ている人が生命活動を行ったら。
今こういうことが現実に起こっています。
私自身、祈りの結果を見たこともあり、また耳にすることもあります。
「みこころ」の中で主の奇跡は起こると私は信じています。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの 花190602「主のもの」

みことばの花190602「主のもの」

「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」(詩篇 24:1)

上記の聖句を繰り返し繰り返し、味わってみました。
そして分かったこと。それは、「私も主のもの」だということです。
「その中に住む者は主のもの」と書いてあります。
ですがこの世界に生きているもののうち、「自分は主のもの」だと理解できるものも、実は本来人間だけです。
ですが、その一面、人間は「自分が主のものだという特権を意識しない」で過ごしているような気がします。
それですから、重荷に潰されてしまいます。
ですが私は「主のもの」だと分かると、まかせるお方がわかる。
人生には数々の重荷がありますが、その重荷を「主のもの」だと言われるお方に背負ってもらうのです。
私に弱さがあり、欠点があっても、その「私も主のもの」だということを覚えたい。
主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190601「純潔な者」

みことばの花190601「純潔な者」

「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。
そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。
彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。」(黙示録 14:4)

「純潔な者」という言葉があります。純潔な者の反対は不潔な者。
「純潔」とは、心身に汚れがなく、清らかなこと。不潔は当然、その反対です。
上記の聖句に「純潔な者」が登場します。
ところで何が純潔なのでしょうか。
その特徴が「女にふれたことのない者」とありますが、そういうことよりも、「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」がキーポイントです。
小羊はキリストのことです。
「キリストの行く所へは、どこへでもついて行く」となる。
今日は第七日安息日です。キリストが両手を広げてわたしを迎えてくださる聖なる日です。
主の愛が今日もありますように。

磯部豊喜