みことばの花 190406「新たな視界」

みことばの花190406「新たな視界」

「すると彼は顔を上げて言った、『人が見えます。木のように見えます。歩いているようです』。」(マルコ 8:24)

外国でのことですが、先日、色覚障害の若者が母からある眼鏡をプレゼントされて、
喜びと驚きの「オーマイゴッド!」を連発している様子を見ました。
この男性の視界は、色のない世界。
きっと白黒テレビとか白黒写真が、カラー画面とかカラーフィルムに変わったような感動だったのでしょう。
さてキリストの時代にも似たような体験をした人がいます。
この人は盲人でしたが、キリストの不思議な処方(両方の目につばきをつけ、両手を彼にあてられた)によって、
視力を得たのです。
この男は、生まれて始めて目で見る世界を知りました。
キリストが再び目の上に両手を当てられると、「見つめているうちに、すべてのものははっきりと見えだした」とあります。
今日は第七日安息日。
主を見つめ心の視界を強めて頂きたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 190405「春」

みことばの花190405「春」

「そのひとりが言った、『来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。
その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。
サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。』」(創世記 18:10)

「春たけなわ」という言葉がありますが、「春」とはいつ始まるのでしょうか。
「春が来た、春が来た、どこに来た。山に来た…♪」という童謡を思い出します。
正月には「初春」と呼んだりします。
歴の上では立春(りっしゅん)から立夏(りっか)までをいう。
今年は2月4日~5月5日だそうです。
日本の気象庁の春は3~5月。旧歴の春は1~3月とのこと。
上記は聖書に最初に登場する「春」ですが、
高齢になるまで子が生まれなかったアブラハムの妻(サラ)に「来年の春、男の子が生まれる」と天使の言葉が告げられました。
「春」という季節には何か良いことが起こるような感がします。
今日、桜満開の「春」を感謝して主を見上げて歩みませんか。

磯部豊喜

みことばの花 190404「誇るべき主」

みことばの花190404「誇るべき主」

「それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである。」(Ⅰコリント 1:31)

キリスト者の望み、それは自分自身でありません。
私は次の言葉が好きで、キリスト者として出発する人によくこの言葉を贈ります。
「自分を見つめると失望する。人を見ているとつまずく。しかし主イエスを見上げると安全である」。
私は、「人間で欠点のない人はいない」と考えています。
ですがこの世界に一人だけ完全無欠(かんぜんむけつ)な人がいます。
それは人となられた神の御子イエス・キリスト。
この方は私の「誇るべき主」です。
今日もこの主の支えがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190403「令名(れいめい)」

みことばの花190403「令名(れいめい)」

「令名は大いなる富にまさり、恩恵は銀や金よりも良い。」(箴言 22:1)口語訳 

今日も元号に初めて使われるという「令」という文字が使用されている聖句を紹介したいと思います。
それは上記のみことばにある「令名」です。
昨日書きました「命令」の「令」よりも、「令名」の「令」のほうが、
新元号の日本最古の歌集「万葉集」を典拠にした「令和」に織り込まれた意味に近いようです。
「令和」は「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやわ)らぎ…」の一文から取られたといいます。
さて「令名」ですが辞書を調べますと、いかに祝福に富む言葉であるかが分かります。
「令名」とは「良い評判、名声」という意味です。
「令名が高い」「令名を馳(は)せる」という言葉などで使われます。
「令名」そのもののキリストを見上げて、まもなく訪れる「令和」の時代に、
「令名が高い人」「令名を馳せる教会」…などと呼ばれる生き方を求めたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190402「令和」

みことばの花 190402「令和」

「これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」(創世記 26:5/新改訳)

私の新元号選びは、見事に空振りに終わりました。
「みことばの花」の読者の中には、「和」の文字を選んでおられた方がいまして、一文字は見事ビンゴ!です。
しかし「令」という文字を想像している人は少なかったと思います。
私は、上記の方の「和」の提案を受けて「恵和」という文字も考えてみました。
しかし「令和」に決定。
約10年ぶりに筆を持って書いてみましたが、ヨレヨレです。
さて、「令」という文字が最初に聖書に登場する箇所を探しました。
上記がそれです。「令」に関して聖書が多用するのは「命令」。
主の「命令」は人を幸せにするためのものです。
主の「命令」を守るならば、「平和」が訪れる。
そのように私は新元号を読みたいと思いました。
今日も主の平和がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190401「新元号(しんげんごう)」

みことばの花190401「新元号(しんげんごう)」

「朝の光のように、/雲のない朝に、輝きでる太陽のように、/地に若草を芽ばえさせる雨のように人に臨む』。」(サムエル下23:4) 

「新元号…、それは『恵光』です。」
…えっ、新元号は11時30分頃に発表では?その通りです。
今日はエイプリールフールの日。私の心に浮かぶ文字を書いてみました。
頭文字はKで「恵」とか「光」という文字が入っていて欲しい。
讃美歌に「恵みの光はわがゆき悩む、闇路を照らせり神は愛なり♪」とあります(旧讃美歌87番/希望の讃美歌253番 )。
恵みの光に照らされる時代を期待して…。
果たして本当の新元号は??皆様も、11時30分までに考えてみませんか?今日も主の恵みの光がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190331「それでもクリスチャン」

みことばの花190331「それでもクリスチャン」

「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ 7:24)

先日、「クリスチャンは二重人格?」ということを書きました。
幾人かの方から、「そのことで悩んでいるのです」との反応がありました。
その一人の方へ、私は次のような言葉を送りました。
「『わたしは何というみじめな人間なのだろう』とパウロは語っていますが、
これはおそらく正直に生きるクリスチャンの誰もが経験していることではないかと思います。
私の心にも常に『牧師のくせに!』の内なる声が響くのです。
そういうジレンマを抱えているのがキリスト者なのでしょうね。
でも逆にいうと、そういう思いをノンクリスチャンの時には抱くことがなかったのも事実です。
ということは、聖霊(心に語りかける神)の声が届いている証明なのだと思います。
この事実を前向きに受け止めていけたらと、自分を慰めています。
『それでもクリスチャンなのだ!』『それでも牧師なのだ!』と」。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜