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みことばの花 210121「殺害の息をはずませる人」

みことばの花 210121「殺害の息をはずませる人」

「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。
それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。」(使徒 9:1,2 口語訳)

迫害者パウロ(サウロ)の行動はますますエスカレートしていきます。ダマスコはエルサレムからは直線で測っても200キロは十分に超える遠方です。
そこにイエス・キリストを信じる者がいると分かったので、彼らを捕えるための許可をユダヤ教のトップリーダーであった大祭司に求めます。
彼のダマスコまでの長い道程は、クリスチャン殺害のための旅行。考えると実に恐ろしい。これが後にキリスト教を広めたパウロの過去の姿でした。
この途上で大きな出来事が起きます。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210120「教会を荒らし回った人」

みことばの花 210120「教会を荒らし回った人」

「信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。
ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。」(使徒 8:2,3 口語訳)

「無知」というのは時に恐ろしい行動をとるものです。パウロ(サウロ)は、とても熱い人でした。
間違っていると思うと、その相手を無き者にしようとするほどに熱く激しかった。「まあ、いいか」と曖昧には出来ない。
キリスト教徒が偽の教えを流布すると考えていましたので、この邪教を抹殺しなくてはと思い行動を起こしたのです。
こうして「教会を荒らし回った」人でした。この時のパウロの心境を彼自身が次のように書いています。
「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。
しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。」(Ⅰテモテ1:13)口語訳)と。
さて、パウロはどのような体験したのでしょう。明日に続きます。

磯部豊喜

みことばの花 210119「迫害者サウロ」

みことばの花 210119「迫害者サウロ」 

「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、…」(使徒 8:1 口語訳)

ここに「サウロ」と記された人がいますが、これはパウロのユダヤ名です。ステパノは敬虔なクリスチャンでした。
サウロは、このステパノを殺すことに賛成していた人、すなわちキリスト教の迫害者でした。
ステパノの最期の場面について「彼を市外に引き出して、石で打った。
これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた」(使徒7:58 口語訳)とあるみ言葉を見ますとサウロがステパノ殺害のリーダーであることが分かります。
サウロとして記されたパウロは当初、熱心なユダヤ教徒で十字架に架かって死んだナザレのイエスを信奉する者らを生かしてはおけないという立場にいました。
このような立場に生きていた人が、若き日のパウロでした。その彼が一転してキリスト教を広める人に変わったのにはそれなりの理由があるのです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210118「死ぬことは益?」 

みことばの花 210118「死ぬことは益?」 

「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」(ピリピ 1:21 口語訳)

パウロと言う人は、キリスト教を世に広めた第一人者です。この人がいなかったらキリストの教えの素晴らしさは、しっかりと確立されていなかったかも知れません。
このパウロが人生を豊かに送れた鍵は、「イエス・キリスト」そのお方に出会ったことにありました。
彼は上記の聖句を書いた人ですが、「わたしにとっては、生きることはキリスト」であると言い切っています。
そしてさらに「死ぬことは益である」とさえ語っています。
「生きることは益である」ならば分かりやすいのですが、「死ぬことは益である」とはどういうことなのでしょう。
自我に死ぬとか内面的な死を指すとも受けとれますが、実際の死(命を失う)さえも益であるとも解せます。
事実、パウロは死を恐れない心を持っていました。彼は体験していたのです。死の向こうにもっと素晴らしい命があることを。
どのような体験をしていたのか、明日に続きます。主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210117「永遠の命とは」

みことばの花 210117「永遠の命とは」

「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ 17:3 口語訳)

人の定め・・・生ある者は必ず死ぬということです。そして死に方は、それを望むが望まないが幾通りとある。
私の知っている某牧師は、「自分はがんで人生を終えたい」と語っていました。その理由は「死の前にいろいろと準備が出来るから」と語っていました。
確かに、不慮の事故などでは何もできずに終わってしまう。心残りが軽減されるという点ではがんも悪くないのかも知れません。
ですが死への備えの中で、希望に満ちた備えは、イエス・キリストを知り信じて死ぬことだと私は考えています。
上記の聖句には「永遠の命」があり、それに至る鍵が書かれています。
「永遠の命」があるかないかを信じるのは人の自由ですが、これを信じないで人生を終えるのはもったいない。
キリスト者の最後の合言葉は「また会いましょう」。「永遠の命」はあります。神の約束だからです。

磯部豊喜