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みことばの花 210303「恥ずかしい」
みことばの花 210303「恥ずかしい」
「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」(創世記2:25 口語訳)
つい先日、BS配線をすることでテレビよりユーチューブを見ることができることを知りました。
これをいじっている時のこと、何とその画像の中で忽然と私の動画が現れました。とてもびっくりしました。
そして恥ずかしい気持ちになりましたが、それは礼拝説教のライブ配信で、説教題は「私は夢をみる」。
ライブ放送を始めた初期の頃のものでしたので、カメラの位置も顔に近く、
しかも緊張丸出しの「下手くそ説教(内容こそはそんなに悪くないと思いましたが…)」。もはや映ってしまっているのは仕方がない。
腹をくくり、この未熟なメッセージを通してでも、これを開いて視聴された方が聖書に触れて頂くきっかけにでもなれば良し…と思えるようになりました。
さて上記は、人類祖先アダムとエバが罪を犯していない時の様子を描いています。
純粋無垢な二人は、「恥ずかしいとは思わなかった」とあります。
罪のない姿とは、この時のアダムとエバのように「恥ずかしいとは思わなかった」姿なのでしょう。
恥ずかしくない生き方が出来たならば、素晴らしいことだと思います。
磯部豊喜
みことばの花 210302「永遠の命とは」
みことばの花 210302「永遠の命とは」
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ 17:3 口語訳)
歌手、俳優の吉川晃司(55)さんが2月16日に都内の病院で心臓の手術を受けていたことがつい先日、報道されました。
心臓の表面にある冠動脈の狭窄(きょうさく)が見つかり「狭心症」と診断。
このままでは心筋梗塞を発症する可能性が高く緊急の治療が必要とのことで入院されました。
映画「チーム・バチスタの栄光」(2008年)で演技指導を受け、その後も親交があった腕利き心臓外科医の下で結成された治療チームによる手術「冠動脈ステント留置術」が無事成功し、経過も順調だとのこと。…こういうめぐり合わせもあるのだと驚きました。
吉川さんは「自分は運がいい」と語っているそうです。
吉川さんの言葉を借りれば私も同様に、いえそれ以上に運が良い。神の御子イエス・キリストを知っているのですから。
多くの人々に「たとえ死んでも生きる」と言われ、「永遠の命」を与えてくださるイエス・キリストを知ってほしいと私は強く願うのです。
磯部豊喜
みことばの 210301「平安を残す」
みことばの 210301「平安を残す」
「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」(ヨハネ 14:27 口語訳)
上記に私の心を引きつける言葉があります。それは「わたしは平安を」とか「わたしの平安を」という言葉。
「は」「の」の部分だけが違います。キリストはキリストご自身の中にある平安の提供者であることを指します。
人は持ち合わせていないものは提供できない。「キリストの平安」はどのような内容の平安なのでしょう。
私の理解では、キリストの平安とは、嵐の只中における平安。周りは嵐が吹き荒れている。
ですが神の愛と守りを見つめているゆえ、穏やかな平安です。このような平安をキリストは私に残そうといわれます。
主の平安がありますように。
磯部豊喜
みことばの花 210228「神にそむく偽証人」
みことばの花 210228「神にそむく偽証人」
「すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。」(Ⅰコリント15:15 口語訳)
昨日、私は「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。」(イザヤ45:22 口語訳)を主題聖句とする説教を語りました。
この聖句と向き合っているうちに、完成したのが死からよみがえったイエス・キリストを語ること。
この聖句を紹介することは週初めに決めていたことでしたが、当初は別の話の展開を考えていたのです。
ところがいざ準備のふたを開けると、キリストの復活を語るように導かれました。
イエス・キリストが死からよみがえられたことは聖書に記録された自明の事実です。
上記はキリストの復活をその目で目撃したパウロの言葉です。
その体験ゆえキリストの復活を否定するならば、それは「神にそむく偽証人」になると彼は断言するのです。
主の恵みが今日もありますように。
磯部豊喜
みことばの花 1027「復活信仰」
みことばの花 1027「復活信仰」
「もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。」(マタイ 28:6 口語訳)
聖書が伝える内容で特質すべきことは、イエス・キリストが死からよみがえって今も生きておられるということです。
キリスト教会では、神を礼拝しますが、それはイエス・キリストへの礼拝でもあります。
なぜイエス・キリストを礼拝するのかというと、それはイエス・キリストが復活の神であり今も生きておられるゆえです。
死んで墓の中に納められている者を礼拝しても何の意味もありません。
死者に祈ったところで、その祈りは届くはずはないでしょう。死人には知情意は存在しない。
しかし、イエス・キリストは十字架にかかって死なれましたが、同時に確かによみがえり今も生きておられる。
これは聖書の教えの根幹です。「主はよみがえられた」はキリスト者の合言葉です。
ハッピーサバス!
磯部豊喜