みことばの花 200722「ヒーロー」

みことばの花 200722「ヒーロー」

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。
それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(Ⅰヨハネ3:16 口語訳)

今、称賛されている6歳の少年がいます。それは4歳の妹を犬の襲撃から守ったブリッジャー・ウォーカー君。
彼は犬に襲われそうになった妹と犬の間とっさに立ちはだかっが、犬はブリッジャー君の頭や左頬に何度も噛みついたのです。
少年は大ケガをしながらも妹の手を引いて安全なところへ導き、犬から逃げることができました。
彼は90針も縫う大怪我で妹は無傷。この少年のコメントがすごい。「どちらかが死ななければならないなら、僕であるべきだと思った」と。
そして自分を襲ってきて犬に対しても怒りや恨みの感情もないという。
SNSでは「彼はまさにヒーローね!」と少年の勇敢さを讃えています。
少年のようなヒーローの元祖が上記の聖句に記されています。
そう、それはイエス・キリストです!

磯部豊喜

みことばの花 200721「かおり③」

みことばの花 200721「かおり③」

「わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。」(Ⅱコリント2:15 口語訳)

「かおり」という言葉を聖書語句辞典で調べますと、それなりに聖書の中に記されていることに気づきます。
上記の聖句では、わたしたちが(特にクリスチャンが)、放つ「かおり」の重み(人の生死に関わるほどの)について語っています。
この聖句の直前には「わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。」(同2:14 口語訳 )とありますが、
他者に影響を与える「かおり」とは、「キリストの知る知識のかおり」とあります。
キリストを正しく知ることができるならば素晴らしいと思う。そのためには私というキリストを受け入れる器が重要。
キリストの美しい御品性を学ぶだけでなく運ぶ器でありたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 200720「かおり②」

みことばの花 200720「かおり②」

「その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。
すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。」(ヨハネ 12:3 口語訳) 

聖書の中には美しい記録がたくさんあります。上記の聖句もその一つだと思います。
これは主イエスが、「全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(マタイ26:13 口語訳)と高く評価された行為の記録です。
マリヤは、主によって「七つの悪霊」の支配から救われましたが、その喜びを当時最も高価な香油を惜しみなく主に注いだという。
その「かおり」は家いっぱいに広がった。この「かおり」は感謝と愛の「かおり」となった。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200719「かおり①」

みことばの花 200719「かおり①」

「主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。…」(創世記 8:21 口語訳)

「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていた」というパスカルの「パンセ」にある言葉は有名です。
このクレオパトラは絶世の美人かと思われていますが、当時の文献に「クレオパトラはさほど美人ではない」ということが書かれてあったという。
ですが彼女が、シーザーとかアントニウスというローマの将軍たちの心を動かしたのには一つの鍵があったという。それが「かおり」。
クレオパトラは、弟のプトレマイオス13世と対立してエジプトを追放されました。
それで時の権力者シーザーの助けを得るために絨毯にくるまって自分自身を贈った。
絨毯から出て来た若いクレオパトラと彼女から放たれた香水のかおりがシーザーの心を射止めたという。
「かおり」というのは、すぐに脳の中枢に達するらしい。
さて、上記は聖書に最初に登場する「かおり」ですが、大洪水を経たノアが神様に感謝の燔祭をささげた「かおり」を神様が受けとめたという記録です。
果たして私は今週、どのような「かおり」を放つことが出来るでしょうか。

磯部豊喜

聖句カード(あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 (コリント人への第一の手紙10章13節 後半)

聖句カード(あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も
備えて下さるのである。 (コリント人への第一の手紙10章13節 後半)

みことばの花 200718「自分の郷里では」

みことばの花 200718「自分の郷里では」

「それから言われた、「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。」(ルカ 4:24 口語訳)

今朝は、私がクリスチャンとして導かれ育てられた木更津教会へ行きます。
出身教会なのですが、「行きづらいなあ~」という思う時期がありました。
それは若気の至り、ご迷惑をかけた数々が私の頭に浮かぶからです。
そんな私ですが、上記の聖句を勝手に自分に重ねて読んでいました(自分の貧しい過去を棚にあげて…)。
私の場合、フウテンの寅さんが葛飾柴又へ帰郷する心境(過去に自分自身が問題を起こしつつも帰郷する姿)に似ています。
キリストは、人の悪しき過去を常に良き将来に変えてくださる。
今は感謝の心で行けるようになりました。

ハッピーサバス!

※本日、千葉教会では、マインドコントロールされて人生をさ迷っている若者を救済し、社会復帰へと導く働きに生涯を投じておられる和賀眞也先生(名誉牧師)をお招きしライブ配信を行います。
http://sda-chiba.org/(SDA千葉教会ホームページ)または、下記のサイトからご視聴することが出来ます。

磯部豊喜
・・・・・・・
安息日学校(聖書の学び)URL 7/18(土) 10:00 (神のためにたくさんの友人をつくる) 第3課「イエスの目で人々を見る」
https://youtu.be/appLDPWx714
礼拝説教URL 7/18(土) 11:00 説教題「どんな人か見たい」 和賀眞也
https://youtu.be/2xJ6G00eaB8

みことばの花 200717「喜びと楽しみ」

みことばの花 200717「喜びと楽しみ」

「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。
万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもって/となえられている者です。」(エレミヤ 15:16 口語訳)

聖書には「喜びと楽しみ」はしばしばペアで紹介されています。
この箇所のリビングバイブル訳は味があります。
「神様のおことばは…ひもじい私のたましいにとっての食べ物です。私の重い心に喜びをもたらし、有頂天にさせてくれます」。
「心が渇き、喜びや楽しみがなくなる時、わたしのように御言葉を食べてみてごらん」と、著者エレミヤは証しします。
辛い心境のとき、「聖書なんか読めるか・・・」という思いは、敵の誘惑。こういう時こそ、聖書に触れることを選択するのです。
力が与えられます。勇気が与えられます。神の愛を聖書によってしっかりと確認することが出来ます。
今日も御言葉が、私を有頂天にしてくれるように。

磯部豊喜

みことばの花 200716「命を懸ける価値」

みことばの花 200716「命を懸ける価値」

「…ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。
なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。」(ヘブル 11:35,36 口語訳)

1952年に制作された「クオ・ヴァディス(主よ、何処へ)」という古い映画。これを見る機会がありました。
歴史に残る「皇帝ネロによるローマの大火」とか「クリスチャンの迫害」とかが描かれている映画です。
この映画を視て、私の高校生時代(宗教に否定的な頃)にクリスチャンと呼ばれる人々が命を落とすような目にあっても信仰を捨てない姿に素朴な疑問を持ったことや、上記の聖句などを思い出しました。
「命を懸ける価値」がキリスト教にはある…と知ったのは21歳の時でした。
迫害は避けたい事ですが、戦時中の治安維持法の下に受けた迫害をアドベンチストの人々が越えてきた歴史もあり、
「命を懸ける価値」…を改めてと見つめていけたらと考えるのです。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200715「友よ」

みことばの花 200715「友よ」

「しかし、イエスは彼に言われた、『友よ、なんのためにきたのか』。このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。」(マタイ 26:50 口語訳)

上記の聖句の「友よ」とキリストが語りかけられた人物が誰であるかご存知でしょうか。
それはキリストを銀貨30枚で裏切った弟子、「イスカリオテのユダ」です。
ユダは大胆にも、キリストの敵に対して「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしており、それを実行しキリストを裏切りました。
キリストは、そのユダの裏切りを予知していました。
にもかかわらず彼に対して「売り切り者よ!」とか「敵に買収されおって!」などの小事を言わずに「友よ」とお語りになられたのです。
とても私にはできないことです。しかしキリストは、これまで友と呼んだユダをここでも「友よ」と呼び続けた。
このキリストの愛と懐の深さに私は圧倒されます。ああ、イエス様は何というお方なのでしょう。
今日もこの主イエスの愛と懐の深さに甘える自分がいます。

磯部豊喜

みことばの花 200714「キリストにまさる良き友はなし」

みことばの花 200714「キリストにまさる良き友はなし」

「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ 15:14 口語訳)

今週は「友」という言葉の感慨に耽っています。そこで思い出した讃美歌。心をホロリとさせる歌詞です。

「①世には良き友も、数あれど、キリストにまさる良き友はなし、罪びとのかしら我さえも、友と呼びたもう、愛の深さよ!
(※繰り返し→)ああ、わがため、命をも捨てましし友は、主なる君のみ。
②世の中の友は、冷えてゆき、温かき言葉、いつか消ゆとも、変わらぬ愛もて、主は我に、喜びを与え、常に育む、(※…)、
③試みの時も、病む日にも、死ぬる間際にも、そばにいまして、力ある腕を我に伸べ、優しくのたもう、いとやすかれと、(※…)」。

これはフォスター作曲の「主人冷たい土の中に」の讃美歌バージョンです。
これを賛美すると胸が熱くなります。
未だに欠点だらけの者ですが、キリストから友と呼んで頂きたく願うのです。

磯部豊喜