みことばの花 200212「完璧な人」 

みことばの花200212「完璧な人」 

「そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、
訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。
それは彼が忠信な人であって、その身になんのあやまちも、とがも見いだされなかったからである。」(ダニエル 6:4 口語訳)

今、私どものセブンスデ―・アドベンチスト教会では世界共通のテキストとしてダニエル書を学んでいます。
ダニエル書は実に面白い。
わずか12章の中に逆転のドラマあり、数々の預言ありで学ぶ人を飽きさせません。
上記はダニエル自身の生き方を記録したものです。
「彼が忠信な人であって、その身になんのあやまちも、とがも見いだされなかった」とあります。
このように言い切れるのは、彼が常に天の神の御品性を見つめていた結果なのだと思います。
自分の生き方をこのように記録できる人に、少しでも近づきたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 200211「自分に戻ってくるもの」

みことばの花200211「自分に戻ってくるもの」

「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。」(ヤコブ 2:13 口語訳)

昨日の「みことばの花」を配信した後で、ふっと思い出した御言葉があります。
それは上記の聖句です。
人の「あわれみ」というのはどこか上から目線のような気がしてしまうのですが、
「さばき」の心に打ち勝つ一つの心の持ち方として受け止めていくならばそれも良いと思います。
「さばき」の心は自分自身にもやがて戻ってきます。
さばくものはさばかれる、これが世の常です。
聖書には「隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか」(ヤコブ4:12 口語訳)とある。
主イエスが語られた「あわれみ深い人は、さいわいである。彼らはあわれみを受ける…」(マタイ5:7 口語訳)によれば、
「あわれみ」というものもまた自分に戻ってくるようです。
今日もあわれみ深い主の恵みがあふれる一日でありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200210「珠玉の言葉」

みことばの花 200210「珠玉の言葉」

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」
(Ⅰペテロ 5:7 口語訳) 

昔の連続ドラマで「おしん」というのがあります。
今BSでその再放送がされています。
かつての最高62.9%、平均52.6%の驚異的な視聴率は、もはや伝説。
「おしん」はがまん強くて一生懸命で家族思い。
心が折れそうなこともやり通す。
子ども時代の主役を務めた小林綾子さんは、「これからいろいろな人と出会い、大変なことがあるだろう。
意地悪や理不尽なことを訴えても変わらず、
それでも横車を押してくるような人はかわいそうな人だと思ってあわれんでやりなさい」という俊作兄ちゃんのせりふは
特に心に残っているとのことです。
考え方ひとつで、生き方にはずみがつきます。
上記の聖句もまた、大変なことと背中合わせの人生に、はずみをつけてくれる珠玉の言葉だと私は思います。

磯部豊喜

みことばの花 200209「親の祈り②」

みことばの花 200209「親の祈り②」

「…もし愛がなければ、いっさいは無益である。」(Ⅰコリント 13:3 口語訳)

「親の祈り」の続きです。
「…どうぞ意地悪な気持ちを取り去ってください。こちらが間違った時には、きちんとあやまる勇気をください。
いつも穏やかな広い心をお与えください。子どもといっしょに成長させてください。
子どもが心から私を尊敬し慕うことができるよう。子どもの愛と信頼にふさわしい者としてください。
子どもも私も神さまによって生かされ愛されていることを知り、他の人々の祝福となることができますように。」
神様に真の愛を求め、人の成長を求めるよりも、まず自分自身の愛を成長させて頂きたいものです。
今日も主の愛が豊かに注がれますように。
今週の歩みがハッピーでありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200208「親の祈り①」

みことばの花 200208「親の祈り①」

「そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。…」(ルカ 11:9 口語訳)

「求めよ」とあります。では私は何を求めるのでしょう。
次のような「親の祈り」と題する言葉があります。
「神さま―理由なく子どもの心を傷つけることのないようにお助けください。
良い所を心からほめてやり、伸ばしてやることができますように。
大人の判断や習慣で子どもをしばることのないように、
子どもが自分で判断し、自分で正しく行動していけるよう導く知恵をお与えください。
感情的に叱るのでなく、正しく注意してやれますように。
道理にかなった希望はできるだけかなえてやり、彼らのためにならないことはやめさせることができますように。…」
続きは明日に回します。
ところで「親の祈り」を「私の祈り」として置き換えてみるのも良いかも知れません。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの 花200207「愚者=愚痴」

みことばの花200207「愚者=愚痴」

「愚者の口の言葉の初めは愚痴である、またその言葉の終りは悪い狂気である。」(伝道 10:13 口語訳)

昨日の家庭集会で、伝道の書(コヘレトの書)10章を輪読しました。
この10章に重ねて登場する単語に「愚者(ぐしゃ)」があります。愚者とは愚かな者と書きます。
愚か者にはなりたくない。
ところで、この愚者の特徴に「愚者は道を行くとき、
思慮が足りない」とか「愚者は言葉を多くする」などと言った言葉が書かれています。
さらに私が着目したものは上記の御言葉です。
「愚者の口の初めは愚痴である」。
愚痴とは何か。「(今となっては)言ってもしかたがないことを、言っては嘆くこと」と辞書にあります。
このような愚痴は、語る本人にも聞く者の心にも不快感を与えるような気がします。
愚痴よりもまず自他共に元気づける言葉を訓練したいものです。

磯部豊喜

みことばの花 200204「変わらないもの」

みことばの花 200204「変わらないもの」

「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(へブル13:8 口語訳) 

一昨日、私どもの教会の教育機関である北浦三育中学校の閉校式へ参列してきました。
以前は千葉県袖ケ浦にあった中学校でしたが、茨城県に移って50年の時を経て、今度は再び千葉県に戻り、大多喜市に所を置きます。
この北浦三育中では私にとって二つの思い出があります。
一つはかつて婚約中の家内がここで教師をしていました。
また一人の娘もここに住み(全寮制)学びました。
「ああ、ここともお別れなのか」と感慨にふけるものがありました。
人は変わり世は移る。しかし動かないものが二つあります。
それは天国とイエス・キリストです。天国は永遠に続きます。
その天国の主人がイエス・キリスト。
今日もこの永遠に続くものを求めたいと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花 200203「傾聴」

みことばの花 200203「傾聴」

「愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。」
(ヤコブ 1:19 口語訳)

昨日名前を書き連ねました佐藤初女(さとうはつめ)さん、独特の対人感覚を備えた人であったといいます。
聴く側に徹し、諭すことはなかった。
そしてこういう持論をもっておられました。
「ともに食することはともに在ること。言葉を尽くして話すより、深いところで通じ合える」。
さらにこういう言葉も遺しておられます。
「私は本人が気づくのを見守るだけ、自分で納得して答えが出せた人は、まわりが驚くほど変わっていきます」
(朝日新聞天声人語2020・2・1参照)。
すごい言葉です。
上記の聖書の御言葉のように、「聞くに早く、語るにおそく」という生き方をしたいものです。
聴くことは力なり。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜