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みことばの花 210219「人生砂漠」
みことばの花 210219「人生砂漠」
「主が彼らを導いて、さばくを通らせられたとき、彼らは、かわいたことがなかった。
主は彼らのために岩から水を流れさせ、また岩を裂かれると、水がほとばしり出た。」(イザヤ 48:21 口語訳)
古い讃美歌に「ゆけどもゆけどもただ砂原、道なきところをひとりたどる…」という暗い歌詞で始まるものがあります。
ですがこの讃美歌には続きがあります。「ささやくごとくに、み声きこゆ、疲れしわが友、われにきたれ」。
ある人は「人生は砂漠だ」と語る。砂漠をさ迷って辛いのは、水がないこと。昔イスラエルの60万以上の民は、エジプトを出立してから荒野をさ迷いました。
途中で水が絶えた時があります。そのとき、何とモーセが岩を杖で叩いたところその岩から水がほとばしり出た(出17:6 口語訳)。
イスラエル人の道程をたどると、一つの上下に裂けている岩に出会います。
これが例の岩ではないかと聖書考古学者たちは考えています。石の下には水の浸食がみられるからです。
神は不思議を名とするお方。人生砂漠にも、心の渇きをいやす水があります。キリストという岩がそれです。
今日も主の恵みがりますように。
磯部豊喜
みことばの花 210218「アーメンたるお方」
みことばの花 210218「アーメンたるお方」
「これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」(黙示録 22:20 口語訳)
「アーメン、ソーメン、冷ソーメン」などと子供の頃に遊び心で語っていた言葉を、いつの日にか祈りの後に付け加えている自分がいます。
クリスチャンは祈りの後に、「アーメン」と言います。
その意味は「まことに」とか「真実に」ですが、これを心を込めて言えるようになるのが不思議です。
私どもの会話でも、「はい!」と返事をします。いつから身に着けたことでしょう。「アーメン」も同様です。
教会で人が祈る時、慣れないと「アーメン」は言いにくい。中にはすぐにスーと言える人もいますが、すごいと思います…。
わたしはそうではなかった。でも今は言える。牧師ですから当然なのですが…。
神は「アーメンたる」お方です。
磯部豊喜
みことばの花 210217「人間の努力+α(祈り)」
みことばの花 210217「人間の努力+α(祈り)」
「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(箴言16:3 口語訳)
私は何でもかんでも「神様に祈りさえすれば…」と言う言葉は嫌いです。人間には果たすべき分というものもあります。
例えてみると、受験。勉強もしないで受験をし、祈りをささげて解答用紙に向かう。これでは絶対に受かるはずはない。
祈りは、怠け者を導くマジックではありません。不断の努力をしている人が、祈りを加える時に結果がついてくるものです。
人は精一杯努力をしても不安が襲ってくる時があります。このような時に、祈りを加えてみる。
そうしますと主は、私の傍にいて私を応援してくださいます。努力をして学んだことを、思い浮かばせてくださいます。
また何かに挑戦する時にも、アイデアを浮かべさせて下さるかも知れません。
上記の聖句は努力している人に当てはまるみ言葉だと私は受け止めています。
努力をしても人には限界があります。
そこで「なすべき事を主にゆだねる」、これが大切な気がします。
磯部豊喜
みことばの花 210216「あなたの荷を」
みことばの花 210216「あなたの荷を」
「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」(詩篇 55:22 口語訳)
人はいろいろな荷物を背負って生活しています。
ある人にとってその荷物があまりにも重くのしかかっていると感じるために、自ら命を断つ人が後を絶ちません。
この荷を支えるにはどうすればよいのかを考えてみました。一つは、荷物を分散して背負う。二つは、この荷物に耐え得る自分の足腰を鍛えること。
しかしこれらは理屈の話で、実際には難しい。
ある人の夢の話ですが偉い儒教の先生が登場し、深い穴に落ちた人に向かって「足腰を鍛錬して出て来なさい」と言ったという。
ですが、これは難しい。ではどうすれば荷に押しつぶされずに生きられるのか。そのヒントが上記の聖句にあります。
「あなたの荷を主にゆだねよ」。「神様、この僕の重荷は重くて負いきれません。どうか助けてください。」と本気で祈ってみる。
私はこの祈りで何度も救われました。
主は私の荷を背負ってくださいます。
磯部豊喜
みことばの花 210215「恐れることはない」
みことばの花 210215「恐れることはない」
「エリシャは言った、『恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから』。」(列王下 6:16 口語訳)
1対10とか、10対100などという組み合わせはどう考えても勝ち目のないものです。
こちらは少数で敵は大軍…こういう立場に置かれたなら厳しいものがあります。
しかしたとえ少数でも、もし私どもが正しい側にいるならば、「恐れることはない」とある。
正しい側にとって上記の聖句は、力強い味方です。
「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多い」。
上記は、小国イスラエルに対し大国シリヤ(アラム)の大軍が攻めてきた時に、預言者エリシャの語った言葉です。
このときイスラエル側に、火の車と火の戦車が山に満ちていたという。
この戦いの結末は、戦わずしてイスラエルが勝利します。
要は私がどちら側にいるかということです。
今日も主の恵みがありますように。
磯部豊喜