みことばの花 190306「関心」

みことばの花190306「関心」

「ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。あなたはわがしもべだから。
わたしはあなたを造った、あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。」(イザヤ 44:21) 

数週間も前のことです。
「人は好きか、嫌いか、無関心か、この三つの中のどれかしか選ばない」という言葉を聞いた方が「本当にこの三つだけだろうか?
これだけではない気がする」と、話してくださった時に、私の頭にひらめいたものがありました。
それはあと一つの選択肢。それは「関心を持つという選びもある」ということです。
「関心を持つ」というのは、「愛」が基礎にあります。
ただしこの「愛」は、元は神の心にあるものなので上から頂く必要があります。
親が子に対して関心を持っているように、神は常に私に関心を持っていてくださいます。
「わたしはあなたを忘れない」と主は、今日も私の心に語りかけてくださいます。

磯部豊喜

「万軍のみことばの花 190305「~のに」

「万軍のみことばの花190305「~のに」

主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。
主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。」(イザヤ 5:7)

必ずしも願通りにすすまないのが人の世であると、み言葉は教えます。
上記の「~のに」は、とても残念な言葉です。
上記の「ユダ」は、神がその民として選ばれた民族。
ですが神の期待通りに生きてはくれない。これには神様さえも嘆く。
期待通りにいかないときに、神様ですら「~のに」があることは私の支えになります。
主は、私の「~のに」を理解してくださるに違いありません。

磯部豊喜

みことばの花 190304「敵を味方に」

みことばの花190304「敵を味方に」

「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである。」(ローマ 12:20) 

昨日「山」と「山」の動かぬプライドのことを書きました。
もちろん、人生には絶対に譲ってはいけないものもあるでしょう。
ですが、もし「敵を敵のままにしない」生き方が出来たならば、これは素晴らしいと思います。
敵という存在とは、自分とは肌が合わない人、意見が食い違う人を指すでしょう。
こういう人と共存することは実に至難のわざです。
むしろ相手の出方を見計らって、こちらも構えてしまうのがこの世の常です。
ところでパウロは上記のような光を神様から受けました。
「敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる」。
このような生き方が、相手を変えることになると。「
貴方には負けた」と言わせ得る、神様の素敵な処方箋なのです。

磯部豊喜

みことばの花 190303「合意」

みことばの花190303「合意」

「しかし鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません。」(ダニエル 2:43) 

一昨日「米朝首脳 合意至らず」という見出しが新聞の第一面を飾っていました。
「やはり…」と感じたのは、私ばかりではないと思います。
「山と山は出会えないが、人と人は出会える」というスワヒリ語のことわざがあるそうですが、
人が「自分は山だ」と言い張っている限り、合意はないでしょう。
人は本来、「人」という文字にあるように、1と1が支えあっていくもの。支えあって行くときに合意が生まれる。
昔、タクシー運転手が、お互いに道を譲れずに、結局、車と車をぶつけ合って通り過ぎる光景をみたことがあります。
実に驚きました。「どうぞ!」と、言えないゆえに…。やはり「山」と「山」いう動かぬプライドが邪魔をしていたのではと思います。
上記の「み言葉」は、この悲しむべき人の性(さが)を語っているような聖句の一つです。

磯部豊喜

みことばの花 190302「永遠の命とは」

みことばの花190302「永遠の命とは」
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」
(ヨハネ17:3) 

昨日、「永遠の命」という宝について触れました。
「永遠の命」とは、永久に死ぬことのない新しい命です。
この世界での大きな悲しみの一つは、人は必ず老化し、やがて貴い命が絶たれるという定めがあるということです。
その運命を変えるために神は独り子を送ってくださった。
上記の聖句は、永遠の命の鍵を語ります。
イエス・キリストを個人的に知るときに永遠の命が始まります。
今日は第七日安息日。永遠の命なる、キリストを求めたい。

磯部豊喜

みことばの花 190301「人生最高のご褒美」

みことばの花190301「人生最高のご褒美」

「そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、
『ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか』。」(マタイ 19:27) 

昨日、外国の某大学でバスケットボールの4つのポジションでの連続ゴールを決めた学生が拍手喝さいを受けました。
このゲームへの参加条件はバスケット選手経験者ではないこと。
この学生は手を競技に使わないサッカー選手でした。
この結果、彼は何と卒業までの授業料約1千万ドルが無償になった。
さて聖書には、「永遠の命」というご褒美のことが記されています。
上記のペテロの質問に対して、キリストは「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、
その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)と言われました。
「永遠の命」こそ人生の最高の宝に違いない。

磯部豊喜

みことばの花 190228「からし種」

みことばの花190228「からし種」

「天国は、一粒のからし種のようなものである。
ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、
空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる。」(マタイ 13:31-32)

世界最小の低体重で生まれた男児が、慶応大病院を退院したことを聞きました。
その産まれた時の体重たるや何と268グラム(手のひら程度)。
退院時は3238グラム。300グラム未満の救命率は実に低く、男児は特に難しいと言われます。
ここで「最も小さいものであるが、大きく育つ種」についての聖句を思い出しました。
それは「からし種」。「からし種」はゴマの1/3もない。
天国も、最初は人の心にまかれる時は小さいが、人の心に入ると人生を変えるほどに大きく育つという。
天国は、人からは低く見積もられます。
ですがそれは価値あるものとして育つ。
実はこの天国とは、私にとって神の御子イエス・キリストなのです。

磯部豊喜

みことばの花 190227「み使いのご奉仕」

みことばの花190227「み使いのご奉仕」

「御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。」(ヘブル 1:14)

聖書には、天使(み使い)の役割が書かれています。
その彼らのご奉仕相手は条件付きのようです。
こんな一文を発見しました。
「不親切、不平、怒りは、イエスのご臨在を閉ざします。
神のみ使いたちが、不快な言葉や、不機嫌で争いがある家から逃げ去っていくのを、わたしは見ました」
(教会への証・第一巻分冊2p105)。
み使いの逃げ去らない平和な家にしたいものです。
今日も主のお守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190226「走るべき行程」

みことばの花190226「走るべき行程」

「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。」(Ⅱテモテ4:7)

一昨日、日本マラソンの父と言われる金栗四三選手のマラソンタイムが「54年8か月6日5時間32分20秒3」と書きましたので、
「えっ」と思われた方がおられると思います。
この時のオリンピックでは最高気温40度という猛暑で参加者68名のうち半分が途中棄権。
金栗選手もレースの途中で倒れてしまいゴールが出来ませんでした。
意識が戻ると、まっすぐに宿舎に帰ってしまったことから「競技中に失踪し行方不明」として扱われました。
後年になってオリンピック開催55周年を記念する式典に招待された金栗氏は、再びストックホルムに赴き
用意されたゴールテープを切ったということで上記のオリンピック史上最も遅いマラソン記録を樹立したというのです。
実に信仰の行程も年月のかかることですから金栗選手と似ています。

磯部豊喜

みことばの花 190225「かなぐり捨て」

みことばの花190225「かなぐり捨て」

「すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。」(マタイ4:22)

昨日書かせていただいた日本人初のオリンピックマラソン走者、金栗四三さんのことから「かなぐり捨てる」という言葉が浮かびました。
「かなぐり捨てる、という言葉はいかにして生まれたのか?」これについての明確な説明を見つけられませんが、
まさに金栗四三の生き方は「かなぐり捨てて」の意味(① 身につけている衣類などを、乱暴に取って放り出す。
「上着を-・てて飛びかかる」② 大事にしてきたものを思い切って振り捨てる。 「恥も外聞も-・てる」)に重なって見えます。
さて、聖書の中にも「かなぐり捨てて」人生を選択した人々がいました。キリストの弟子たちです。
良い人生を歩むとは、ここぞという時、「恥も外聞もかなぐり捨てる」ことも必要なのかも知れません。

磯部豊喜