みことばの花 190325「勝利」

みことばの花190325「勝利」

「すると、長老のひとりがわたしに言った、
「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。」
(黙示録 5:5) 

「敗北しているにの勝利者」…一昨日(土曜日)の夜、世界フィギュアスケートの羽生結弦選手のフリー演技を拝見しました。
競技結果としてはフリーも2位。1位のネイサン・チェーン選手は申し分のない完ぺきな演技。
しかし羽生選手の演技には点数以上に見る人を感動させるものがありました。
「僕の敗北は死と同じ」と彼は語る。
さて上記の聖句は、キリストの勝利を語ったみ言葉です。
キリストは「ユダ族のしし」と呼ばれる方でしたが、「強いしし」としてでなく、「ほふられた小羊」として勝利したと聖書は記しています。
「ほうられた小羊」は死んだ動物ゆえ敗北のしるしです。
ゆえに真の勝利は勝ち負けを超えるところにあると私には思えるのです。

磯部豊喜

みことばの花 190324「お大切」

みことばの花190324「お大切」

「もし愛がなければ、いっさいは無益である。」(Ⅰコリント13:3) 

英語の聖書が日本語に訳されるとき、始めの聖書には「愛」を「お大切に」…と訳されたといいます。
九州で人気の「うどん屋」の店主が、ある張り紙をしました。
「今日ご来店のお客様に 今日は私事ですが妻が子供を産みましたので、おめでとうを言いたいのでお休みさせて頂きます…」。
日本人には仕事第一を美徳と考える人が多いかも知れませんが、こういう店主の姿にも人間としての温かみを感じます。
人にはいろいろな愛の形があります。
「何を一番、お大切にしているのか」…これをふっと考えさせられる店主の張り紙。
そして上記の聖句が、いつも私の心に迫ってくるのです。

磯部豊喜

みことばの花 190323「光の子」みことばの花190323「光の子」

みことばの花190323「光の子」

「『光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい』。
イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。」(ヨハネ 12:36)

今日は「光の子」という言葉に注目してみました。
上記の聖句は、私どもが「光の子」となる秘訣を教えています。
「光の子となるために、光を信じなさい」、すなわち光を信じれば、光の子になれるという。
昨日、「ベトナムのひかり~ボクが無償医療を始めた理由」の主人公のモデル、
眼科医の服部匡志(はっとりただし)氏のことを紹介しましたが、
服部先生が見ていたものは、かつて「人は人を助けるために生きているんや」と言われた父の背中だったとのこと。
人が光の子になるには、お手本が必要です。
今日は第七日安息日、私も「本物の光であるキリストに触れていきたい」と願うのです。

磯部豊喜

みことばの花 190322「世の光」

みことばの花190322「世の光」

「あなたがたは、世の光である。」(マタイ 5:14)

昨日、とても感動的な話を拝見しました。
そのタイトルは「ベトナムのひかり~ボクが無償医療を始めた理由」。
これはNHKで放送された実話に基づくドラマ。
ベトナムで15年以上にわたって、無償医療を続けている眼科医で服部匡志(はっとりただし)さん。
服部先生は、眼科医の不足するベトナム人の叫びに応え、3か月間の約束で日本を離れベトナムに渡った。
始めのうちは国民性の違いから同じ医療者たちから拒否をされたりして困難に出会うこともありましたが、
「ベトナムで目を患っている人の目にひかりが灯り、その笑顔を見たいがために」の一念で励む姿が感動的で私の涙を誘った。
そして今も、日本で眼科医を務める傍ら、ベトナムにも飛び続け無償で「目のひかり」を取り戻す働きを続けているという。
この人の愛の姿に、私は上記のみことばを思い浮かべるのです。

磯部豊喜

みことばの花 190321「神を信じなさい」

みことばの花190321「神を信じなさい」

「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中に入れと言い、
その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。」(マルコ 11:22)

上記はイエス・キリストのみ言葉です。
「神にはできないことがない」という約束を心につかんでさえいれば、上記の約束が真実であることがわかります。
ですが人は、このとおりに素直に信じられません。
奇跡とは全能の神を信じることから起こるご褒美のようなものです。
それゆえにまず、「自分の常識ではなく、あなた様を信じる心を与えてください」と祈り始めたい。

磯部豊喜

みことばの花 190320「解釈という選び」

みことばの花190320「解釈という選び」

「マリヤはその良い方を選んだのだ。」(ルカ 10:42) 

昨日は「王を選ぶ」ということを書きました。
今日は解釈という選び。車を盗難された夫婦の話。
妻は「車の中に大切なものがある」と言って心を取り乱す。
その様子を見て夫は「ねえ君、僕たちは車を盗まれて取り乱しているのと、
車を盗まれても幸せな気分でいるのと、どちらかを選べるんだよ。
どんな態度をとるか、どんな気分でいるかは自分で決めるんだ」と言った。
車は無事に5日後に見つかった。ただ妻の大切なものはなかった。
それから一週間後に夫は、戻ってきた車のハンドルを握りウキウキ気分。
ところが前の車に追突してしまった。
多額の修理代に、保険の請求!「どうして事故なんかおこしたのか」と彼は、地団駄を踏んだ。
そこに妻が来て、「盗まれて」を「壊れて」に言い換えて夫が語った同じ言葉を語ったという。
人生、良い方(解釈)を選びたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190319「王を選ぶ」

みことばの花190319「王を選ぶ」

「それゆえ、今あなたがたの選んだ王、あなたがたが求めた王を見なさい。
主はあなたがたの上に王を立てられた。」(サムエル上 12:13)

「人生は自分の選んだ王に支配される」いう言葉を考えました。
上記のみ言葉は、「私たちには他国のように王が欲しい」と願って、王を立ててもらったイスラエル人のことが語られています。
イスラエル民族は、もとは遊牧民でしたが神に導かれてカナンと呼ぶ地方へ移住しました。
しばらくは神を仰ぐ人々がこの民族のリーダーでしたが、他国のように王を求めました。王を立てるというのはリスクが伴います。
王の技量や人格次第で国の動向、盛衰が決まるからです。
ところで私どもも日夜王を選んでいます。
神様か、自分自身か、カミさん?なのか…。ここに見えざる王がいます。

磯部豊喜

みことばの花 190318「価値観」

みことばの花190318「価値観」

「両親は主の律法どおりすべての事をすませたので、ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰った。」(ルカ2:39)

上記は、生まれて間がないイエス・キリストの両親がエルサレムに上った時の出来事です。
まだ一歳にも満たないイエス様を抱えて両親は宮に参拝し、「自分の町ナザレ」に戻りました。
「ナザレから、なんのよいものが出ようか」(ヨハネ1:46)とナタナエルという人の言葉にあるように、
イエス・キリストがお育ちになられた所は、あまり良い環境ではなかったようです。
それでも「幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった」(ルカ2:40)と記されています。
子育ては環境が大切なのは間違いありません。
ですが最高の環境は、場所以上に、家族の持つ価値観ではないかと思うのです。
神の愛のあふれる家庭にしたいものです。今日も主の恵みがありますように!

磯部豊喜

みことばの花 190317「別れ」

みことばの花190317「別れ」

「互に別れを告げた。それから、わたしたちは舟に乗り込み、彼らはそれぞれ自分の家に帰った。」(使徒 21:6) 

今日は市原市にある光風台三育小学校の卒業式に参列させて頂きました。
「会うは別れの始め」といいますが、光風台の三育小は小さな小学校で今年は6人が巣立っていかれました。
振り返ってみて私も2016年の春までは、東京三育小学校のチャプレン(学校の専任牧師)でしたので、
5年間ほど当時の6年生たちの門出を祝福してきました。
上記の聖句も「別れ」の場面です。別れたのち、「彼らはそれぞれ自分の家に帰った」とあります。
帰る家があるっていいことですね。さて私たちの人生には帰る家はあるのでしょうか。
人生で帰る家、それは天の都だと聖書は教えています。
そこでは決して別れることのない「永遠の家」があります。
この家を今からリザーブ(予約)しておきたいものです。信仰によって…。

磯部豊喜