みことばの花 190403「令名(れいめい)」

みことばの花190403「令名(れいめい)」

「令名は大いなる富にまさり、恩恵は銀や金よりも良い。」(箴言 22:1)口語訳 

今日も元号に初めて使われるという「令」という文字が使用されている聖句を紹介したいと思います。
それは上記のみことばにある「令名」です。
昨日書きました「命令」の「令」よりも、「令名」の「令」のほうが、
新元号の日本最古の歌集「万葉集」を典拠にした「令和」に織り込まれた意味に近いようです。
「令和」は「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやわ)らぎ…」の一文から取られたといいます。
さて「令名」ですが辞書を調べますと、いかに祝福に富む言葉であるかが分かります。
「令名」とは「良い評判、名声」という意味です。
「令名が高い」「令名を馳(は)せる」という言葉などで使われます。
「令名」そのもののキリストを見上げて、まもなく訪れる「令和」の時代に、
「令名が高い人」「令名を馳せる教会」…などと呼ばれる生き方を求めたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190402「令和」

みことばの花 190402「令和」

「これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」(創世記 26:5/新改訳)

私の新元号選びは、見事に空振りに終わりました。
「みことばの花」の読者の中には、「和」の文字を選んでおられた方がいまして、一文字は見事ビンゴ!です。
しかし「令」という文字を想像している人は少なかったと思います。
私は、上記の方の「和」の提案を受けて「恵和」という文字も考えてみました。
しかし「令和」に決定。
約10年ぶりに筆を持って書いてみましたが、ヨレヨレです。
さて、「令」という文字が最初に聖書に登場する箇所を探しました。
上記がそれです。「令」に関して聖書が多用するのは「命令」。
主の「命令」は人を幸せにするためのものです。
主の「命令」を守るならば、「平和」が訪れる。
そのように私は新元号を読みたいと思いました。
今日も主の平和がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190401「新元号(しんげんごう)」

みことばの花190401「新元号(しんげんごう)」

「朝の光のように、/雲のない朝に、輝きでる太陽のように、/地に若草を芽ばえさせる雨のように人に臨む』。」(サムエル下23:4) 

「新元号…、それは『恵光』です。」
…えっ、新元号は11時30分頃に発表では?その通りです。
今日はエイプリールフールの日。私の心に浮かぶ文字を書いてみました。
頭文字はKで「恵」とか「光」という文字が入っていて欲しい。
讃美歌に「恵みの光はわがゆき悩む、闇路を照らせり神は愛なり♪」とあります(旧讃美歌87番/希望の讃美歌253番 )。
恵みの光に照らされる時代を期待して…。
果たして本当の新元号は??皆様も、11時30分までに考えてみませんか?今日も主の恵みの光がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190331「それでもクリスチャン」

みことばの花190331「それでもクリスチャン」

「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ 7:24)

先日、「クリスチャンは二重人格?」ということを書きました。
幾人かの方から、「そのことで悩んでいるのです」との反応がありました。
その一人の方へ、私は次のような言葉を送りました。
「『わたしは何というみじめな人間なのだろう』とパウロは語っていますが、
これはおそらく正直に生きるクリスチャンの誰もが経験していることではないかと思います。
私の心にも常に『牧師のくせに!』の内なる声が響くのです。
そういうジレンマを抱えているのがキリスト者なのでしょうね。
でも逆にいうと、そういう思いをノンクリスチャンの時には抱くことがなかったのも事実です。
ということは、聖霊(心に語りかける神)の声が届いている証明なのだと思います。
この事実を前向きに受け止めていけたらと、自分を慰めています。
『それでもクリスチャンなのだ!』『それでも牧師なのだ!』と」。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190330「真理を買う」

みことばの花190330「真理を買う」

「真理を買え、これを売ってはならない、知恵と教訓と悟りをも買え。」(箴言 23:23) 

また多くの食品が値上げされるようです。
消費者にとって財布の口が堅く締まるのではと感じてしまいます。
ですが食料品は、この地上で生きるためには買わなくてはなりません。
ところでこの食料品以上に大切な買い物があります。それは真理です。
真理は来世に生きるために買っておかねばなりません。
この真理とは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われたイエス・キリストご自身を指しています。
この方を買った(受け取った)ならば決して売っては(手放しては)ならない。
イエス・キリストという真理は「永遠の命」そのものです。
今日は第七日安息日、主イエス・キリストというお方を信仰によって豊かに買う(受け取る)日です。

磯部豊喜

みことばの花 190329「何が重要か」

みことばの花190329「何が重要か」

「わが子よ、知恵を得て、わたしの心を喜ばせよ、そうすればわたしをそしる者に答えることができる。」(箴言 27:11) 

「ハイ、売名です。あなたも売名したら?みんな助かるよ」とは、俳優の杉良太郎さんの言葉です。
東北の被災地で炊き出しのカレーを混ぜている時、リポーターに「それって売名ですか」と訊かれました。
寒空の下、人々が並んで待っている。反論する時間も惜しかった。
…以上の内容が、少し前の新聞の中に記載されていました。
有名な人が人助けするというのは、こういうこともあるのか…と考えさせられますが、
杉良太郎さんの咄嗟に出てきた言葉は、心を打つものがあります。
今「何が重要なのか」を心得ている人の言葉です。
このようにどんと座った心を持てたらいいなあ~と思います。
今日も主の愛と知恵が、私を包んでくださるように祈るのです。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190328「向上」

みことばの花190328「向上」

「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、」(ピリピ3:13)

ものまねタレントのコロッケさんが、お母様に教えられえ支えられた言葉に「あおいくま」という言葉があるとのこと。
それは「焦るな」「怒るな」「威張るな」「腐るな」「負けるな」の頭文字で構成されています。
これをコロッケさんは高校生まで他人に対しての言葉だと思っていました。
でも、ものまねの番組で初優勝して頂点に立ったとき、「負けるな」の意味が分からなくなり、
同時に他の四つも心に落ちてこなくなったという。空しさを感じて悩んだ末、自分に対しての言葉だと気づきます。
「自分に負けるな」は、自分の芸に満足せず、もっと面白くしようと突き詰めることができると受け止めました。
誰かにではなく、自分自身に勝つこと、これが前に向かって進む、向上ということなのでしょう。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190327「クリスチャンは二重人格?」

みことばの花190327「クリスチャンは二重人格?」

「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。
このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」(ローマ7:25) 

上記は感謝できる内容なのでしょうか。
これは二重人格の生き方に見えます。こういう一文を発見。
「聖書は、世俗の生活者を『肉なる人間』と呼び、神の支配のもとにある人間を『霊なる人間』と呼びます。
この意味でクリスチャンは二重人格者にもなるわけです。
クリスチャンは、よく世人から偽善者とみられたり、そういわれたりすることがありますが、
その理由はここに起因するということもできます」(及川吉四郎・キリスト教とはどんな教えなのか(下巻)p143)。
きっと、こういう宿命を背負っているのがクリスチャンなのでしょう。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの 花190326「愛は…誇らず」

みことばの花190326「愛は…誇らず」

「愛は高ぶらない、誇らない。」(Ⅰコリント 13:4)

「イチロー引退 現役28年 日米4367安打」…数日前の新聞の見出しの言葉。
輝く記録を作り続けた鈴木一朗選手(45)が現役引退を発表しました。
数々のインタビューに答える姿、一つ一つを丁寧に語られるイチロー選手を見て清々しいものを感じました。
「思い出の試合は?」と聞かれた時に、「今日の試合以外でしたら…」と前置きをし、
「輝かしい結果を残した試合ではなく、昨年度引退せずにコツコツと練習をすることが出来た一年間を振り返り、この日を迎えたことに感謝」
という姿に心が打たれました。
人間は、自分の輝いた過去に目を向けがちです。
私も過去の働きの栄光を思いだそうと努めてしまう一人です。
しかしこのイチロー選手の姿に、私は「愛は高ぶらず、誇らない」…の聖句を思い出すのです。

磯部豊喜