すべて主に寄り頼む者はさいわいである。(詩篇2篇12節)
今週のお花 (5月11日) シャクヤク、ブルースター、みおやなぎ、カンパネラ
みことばの花 190511「み言葉の力」
みことばの花190511「み言葉の力」
「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」(詩篇 119:130)
「私は何のために生きているのか」という疑問は、人である限り、一度は頭に浮かべることではないかと思います。
私もそうでした。
高校生時代の仲の良い友に死なれた時に、その思いは強くなりました。
ですがどんなに考えても、哲学書をめくっても答えは見つからない。
ですが神様の「み言葉」を手にしたとき、その疑問は氷解しました。
人生をすでに送っているにも関わらず、「生きる意味」が分からない人生。
ですが今は人を創造されたお方(神)の存在を知りました。
創造者なるお方は、人に命を与える目的をもっておられて当然です。
み言葉の力に触れて、今はこの神の愛を受け、永遠の命を得るために人生が与えられていることが分かりました。
別の言葉でいうならば「愛にあふれた神様を知るために」人生が与えられているということです。
ハッピーサバス!
磯部豊喜
みことばの花 190510「ビーイングの愛」
みことばの花190510「ビーイングの愛」
「しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。
わたしの心はこれを望んでこがれる。」(ヨブ 19:27)
「味方」が一人でもいれば人は心強くなれます。
周りの人が全員自分を否定しても、もし最も近しい人が「味方」なってくれるならば人は元気になれる。
ビリギャルこと小林さやかさんの肉声をラジオで聞きました。
さやかさんは、中高をビリで卒業し、素行不良(そぎょうふりょう)を理由に何度も停学になり、
学校の校長に「人間のクズ」と呼ばれたこともあったそうです。
煙草を吸って、母が学校に呼ばれたことがあった。
その時、母は先生に「すみません」と語った後、「でも、この子はとっても良い子なのです。」と告げた。
これ以来、さやかさんは偏差値を40上げて、慶応大学に進む。
「私は母にビーイング(存在)の愛を受けた」と語っていました。
私の信じる神様も、さやかさんの母のような眼差しで私どもを見つめてくださいます。
主の恵みが今日もありますように。
磯部豊喜
みことばの花 190509「有って有るもの」
みことばの花190509「有って有るもの」
「神はモーセに言われた、『わたしは、有って有る者』。…」(出 3:14)
「神様は誰が造ったの?」、一昨日の質問の答えがこの聖句にあります。
最初から有る(存在している)おかたであることが、真の神としての必要条件です。
もし「神様が誰かに造られた」とするならば、この神様と呼ばれる者を造ったかたこそ本当の神様です。
言い換えると誰かに造られる者は、初めから本物の神ではない。
真の神は、人から創造されるものでもない。
「はじめに神は天と地を創造された」(創1:1)と言われるお方、
わたしを造り導き、命と愛を与えてくださっているお方を今日も見上げて歩みたい。
磯部豊喜
みことばの花 190508「サムシング・グレート」
みことばの花190508「サムシング・グレート」
「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。」(詩篇 139:13)
遺伝子(DNA=デオキリシボ核酸)が私たちの体を構成する細胞の中にあることは良く知られています。
最初は一個の細胞(受精卵)から始まって、細胞分裂を繰り返し、約3兆個の細胞が赤ちゃんの姿になって「おギャー」と誕生するという。
産まれてからも細胞分裂は続き、60キロの大人に成長する時には約60兆個の細胞が出来上がる。
不思議なのは、元は同じ細胞なのにある細胞は脳細胞になり、肝細胞になったり、爪や目の細胞になったりする。
どの細胞も同じなのに細胞間でなんらかの取り決め、役割分担みたいなものが行われるらしい。
そこでこれらの仕組みを考えた誰かを想定しないわけにはいかない。
遺伝子学のM先生はこの誰かを、偉大なる何者か(サムシング・グレート)と呼んでいます。
クリスチャンはその方を創造主なる神様と呼んでいます。
今日も神様によって生かされていることに感謝したい。
磯部豊喜
みことばの花 190507「子ども」
みことばの花190507「子ども」
「すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。』」(マタイ 18:2,3)
過ぎ去った5月5日の新聞記事に「『あしたはなぜあるの』。
もし子どもから聞かれたら、何と答えればいいのだろう。
かつてTBSラジオの電話相談に寄せられた、小学校3年生の質問である。
永六輔さんが答えあぐねると、もう一人の回答者、天文研究者の小林悦子さんが口を開いた。
『きのうと今日は、もうすぎちゃったことだから、やりなおしがきかないでしょう』『うん』
『だけど「あしたは、何かやってやろう!」と思うじゃないですか』。
科学的ではないけれど、うなずきたくなる…」とありました。
子どもからは答えにくい質問が飛んでくる時があります。
「神様は誰が造ったの」もその一例。このグッド・クエスチョンに何と答えましょうか…。
今日も主も支えがありますように。
磯部豊喜
みことばの花 190506「休ませてあげよう」
みことばの花190506「休ませてあげよう」
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ 11:28)
今日をもって大型連休が終わりますが、今日は人生に真の休みを届けてくださるキリストのみ言葉を瞑想します。
重荷のない人生は、おそらくないと思います。
人生には時として楽しいこともありますが、涙があり、苦悩があり、病気があり、死も不安も襲ってきます。
これが悲しいかな私どもの人生です。
ですが神の御子イエス・キリストは私どもの人生の苦悩を誰よりも理解してくださいます。
「イエス様、助けてください」と祈る時に、重荷がふっと軽くなるのは不思議なことです。
磯部豊喜
みことばの花 190505「休み」
みことばの花190505「休み」
「するとイエスは彼らに言われた、『さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい』。
それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」(マルコ 6:31)
10連休などと呼ばれた今年のゴールデンウィークも、あと二日になりました。
それにしても三分の一か月も休むとなると、体も心も鈍(なま)ってしまう気がしますが、10連休を体験された方に聞いてみたいものです。
「休む」ことについて、私の所属する教団からも「最低5日は有休を使い、その届け出をしてください、国の指導ですから…」などという御触れが届いていました。
イエス・キリストも上記のように「しばらく休むがよい」と弟子たちにお語りになられたことがあります。
休み過ぎはどうかな?と思いますが、休まないのも問題。
程(ほど)よい休みをとり、リフレッシュされて人生のリセットするのは大切なことなのだと思います。
主の守りが今日もありますように。
磯部豊喜