みことばの花 190825「愛の穂を育てるもの」

みことばの花190825「愛の穂を育てるもの」

「地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。」(マルコ4:28 口語訳)

ここには地の実がどのようにして実るかが紹介されています。
その内容は単純で分かりやすい。
キリストが語られる時に、重みがぐっと増します。
これは麦の穂を指さして言われたのかも知れませんが、麦の穂ができるには順番があります。
まず麦の穂はすぐには出来ない。
この麦の穂を「愛の穂」に替えてみるのも良い。
「愛」を嫌う人はいないでしょう。
ですが「愛はなかなか育ちにくい」。
ところで「麦の穂」はどうして育つのでしょう。
そのカギは「地」です。「地」につながってさえいれば麦は育つ。
「愛の穂」も同じで愛なるお方、キリストという地につながれば育つのです。

磯部豊喜

みことばの花 190824「肉の人」

みことばの花190824「肉の人」

「あなたがたはまだ、肉の人だからである。
あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。」
(Ⅰコリント 3:3  口語訳))

一般に「肉の人」というのはキリストを心に持っていない人を指す言葉です。
しかしクリスチャンになった人にもこの言葉が使われています。
もし「ねたみや争い」の心に支配されてしまうと、それは「肉の人」。
ではなぜ人は「ねたみ」「争う」のでしょうか。自我というものが死にきっていないからです。
自我が死にきらないと、人の心に「ねたみ」「争い」が生まれます。
この肉の心をキリストの十字架と共に張り付けなさいと御言葉は教えます。
今日は安息日、キリストの愛に満たされたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190823「負けて勝つ」

みことばの花190823「負けて勝つ」

「そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。
なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。」(Ⅰコリント6:7  口語訳) 

2019年夏の高校野球大会が履正社高校(大阪)が,星稜高校(石川)を破り夏のドラマを終えました。
この両校の戦いの裏に、春の選抜大会で両校は対戦しこの時、履正社は星稜高校に0-3での敗北経験があった。
この敗戦が履正社を強くし、この夏で両校が決勝でぶつかる。
このような対戦自体が奇跡のようですが、「打倒星稜」を胸に履正社の球児は強くなった。
この事実は「時に人生は負けることも大切だ」と教えてくれます。
ところで上記の御言葉は、人生の本当の敗北と勝利を教えているような。
「不義を受ける。だまされること」、これは敗北の選択。
しかし自らそれを選べる人は本当に強い人だと思います。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190822「危険な季節」

みことばの花190822「危険な季節」

「わたしのいのちは常に危険にさらされています。しかし、わたしはあなたのおきてを忘れません。」(詩篇 119:109  口語訳)

夏から秋にかけて台風が日本列島にやってきます。
まさに危険な季節です。
ところでこの2学期の始まる直前の8月末は、中学生たちにとって、もっとも危険な季節だといいます。
2学期が怖くて、命を閉ざしてしまう生徒がいると聞きます。
8月18日の新聞(朝日)は、その予防のための特集記事がひしめいていました。

「好きなことして、君の道を生きて」(新聞の見出し)
「自分自身を見捨てないで」(内田也哉子)
「必要のない人なんていないんだから、必要とされるものに必ず出会うから。
そこまでは、ず~っといてよ。ぷらぷらと」(故・樹木希林)

…自然災害ですが、人的な災害も注意して欲しいと共に、神様の愛も覚えて欲しいのです。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190821「悪い時代」

みことばの花190821「悪い時代」

「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。」(エペソ 5:16  口語訳)

この聖句は今から約1950年も昔にパウロの書いた一文です。
今日、読んでも違和感がありません。
あおり運転が後を絶たず、ボイスレコーダーが必要な時代。家のドアもロックが必要。
戦後の日本のほうが安全。隣近所の付き合いも半ば家族のように勝手に玄関へ入れて、味噌、醤油を譲り合った。
そんな時代は過去の遺物。
「今は悪い時代」、やはりイエス・キリストに出現してもらわなければならないのでしょうか。

磯部豊喜

みことばの花 190820「新しく造られる」

みことばの花190820「新しく造られる」

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント 5:17 口語訳)

人は新しくなることはできるのでしょうか。
このみ言葉は人が新しくなうことを約束しています。
新しくなるのは、古いものが改善するとか修正されるとかそういうものではありません。
つまり「リホーム」されることではなく、「改築」されることです。
「リホーム」は土台が変わっていません。
いい人になろうと努力する人。
しかし品性の根幹は変わりません。
こういう人は人生の嵐が吹くと倒れてしまうでしょう。
ですが「改築」は、土台から変えられます。
その土台はキリストです。
キリストが人生の中心になります。
これをキリスト教用語では「新生」と呼ばれるものです。
「新生」された人は、人生の嵐が吹き付けても揺らぐことはありません。
新しく造られることを求めたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190819「主の熱心」

みことばの花190819「主の熱心」

「弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。」(ヨハネ 2:17  口語訳) 

「熱心」という言葉と「激しい」という言葉は似て非なるものです。
私の信じるイエス・キリストはどのようなお方だったのか。
これは私にとって最も瞑想したいことです。
イエス様のご生涯で時折見る驚くべき行動があります。
その中の一つは「宮清め」という言葉に表された出来事です。
神殿が宗教の名を借りて商売の道具にされていた時、キリストは一見激しいと見える行動を取っておられます。
縄で鞭を作り、両替人の台をひっくり返します。
これはキリストの激しい品性の一面なのではないか、と受け止める人がいます。
ですが「キリストは熱心ではあったが激しくはなかった」という言葉が私の脳裏に浮かびました。
聖書は「あなたの家を思う熱心が」と書いています。キリストのように熱心な人になりたい。
私の願いです。

磯部豊喜

聖句カード (また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。(イザヤ書30章21節 口語訳))

聖句カード

(また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。(イザヤ書30章21節 口語訳))

みことばの花 190818「ヤベヅの祈り⑦」

みことばの花190818「ヤベヅの祈り⑦」

「ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、『どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように』。神は彼の求めるところをゆるされた。」(歴代上4:10)

ヤベヅの三つ目、四つ目の願いは「あなたの手がわたしとともにあって」と「わたしを災いから免れさせ」です。
この二つの願いが、彼のいやな名前の意味(悲しみ、痛み、苦しみ)を乗り越える鍵となっています。
そしてこの二つの願いは繋がっています。彼の願いはまず「神が自分と共にあること」でした。
神が共にいてくださればどんな災いも乗り越えて行くことが出来る。
自分の願い事をする人は多い、ですが「神が自分と共にあること」を願う人は少ない。
この二つがパックであることを覚えて、ヤベヅの祈りをささげたい。
「ヤベヅはその兄弟のうちで最も尊ばれた者であった」という結果は、この祈りあってのことだと考えられます。

磯部豊喜