みことばの花 200225「努力」 

みことばの花 200225「努力」 

「気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。」(二ヨハネ 1:8 口語訳)

頑張るスポーツ選手の言葉には、実体があって学ぶことが多いです。
何日か前のことですが、かつて広島カープのレギュラーで活躍された新井貴浩選手の言葉です。
「猛練習はやったもん勝ちだ」「もうだめだ、でなく、まだだめだ」と言って、努力に努力を重ねたといいます。
頑張っても報われないとマイナスで受け止めてしまうときがあります。
しかし上記の聖句には「努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい」とあります。
努力は私を裏切らない、頑張ってもうまくいかないときは、さらに努力すればよいのだと自分に言い聞かせたいものです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200224「良い関心」

みことばの花 200224「良い関心」

「あなたの兄弟の牛、または羊の迷っているのを見て、それを見捨てておいてはならない。必ずそれを兄弟のところへ連れて帰らなければならない。」
(申命記 22:1 口語訳)

「無関心」は、好ましくない言葉だと思います。
ところで「関心」を持つことにも「悪い関心」と「良い関心」があると思います。
近年、人の所有物に「関心」を持ち、手を出してそれを自分のものとして失敬するニュースが後を絶ちません。
これは悪い関心。ですが、良い関心もあります。
それは上記の聖句のようなケースです。人の所有物に対して親切な対応をすること。
人が置き忘れたものをきちんと届ける「関心」は良い。これはその所有者に対する思いやりの表れです。
この社会が、互いに人の益を考えて人の所有物を含め「良い関心」を持ち、行動出来たら素晴らしいと思います。
今日も主の愛の心が私を包みますように。

磯部豊喜

みことばの花 200223「霧のように」

みことばの花 200223「霧のように」

「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。」
(イザヤ 44:22 口語訳

歌手の布施明さんの持ち歌で「霧の摩周湖」という曲があります。
この題のように摩周湖は濃い霧が発生することの多い湖のようです。
過去に家族で摩周湖を車で周遊したときに、一寸先も見えないほどにその霧に包まれたことがありました。
ところで最近、千葉市内に時々霧が発生します。霧は幻想的で美術的には素敵なのですが、運転手泣かせです。
さて上記は霧にまつわる聖句。この聖句では、記述の順序に注目したい。
私(神)に立ち返れば、あなたの罪を霧のように消す、というのではなく、罪をすでに霧のように消したので、私に立ち返れ…とあります。
あなたを許す条件をすでに整えているので、私のところへ帰っておいでと主は言われます。
これは神様のやさしさが伝わってくる聖句です。
今日も主の守りがりますように。

磯部豊喜

みことばの花 200222「人生ナビ」

みことばの花 200222「人生ナビ」

「…ああ、わが民よ、あなたを導く者は/かえって、あなたを迷わせ、あなたの行くべき道を混乱させる。」(イザヤ 3:12 口語訳)

何年か前に「ナビは頼りにならない」という説教をしたことがあります。
なぜこんな題の説教をしたかというと、事実、ナビの示す通りに車を走らせたところ白バイに捕捉されたことがあったからです。
「ナビの盲点」場所もあるらしい。ところでこの世には、「これが道だ」と言って平気で嘘を教える輩(やから)がいます。
上記の聖句は、そのような偽者人生ナビの存在を指す。
果たして確かな人生ナビはあるのか。聖書の神こそ確かな人生ナビです。神は偽ることのできないお方。
「神は人のように偽ることはなく、/また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、
/語ったことで、しとげないことがあろうか。」(民23:19 口語訳)とある。
今日も確かな人生ナビを見つめたい。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 200221「ソロモンの知恵」

みことばの花 200221「ソロモンの知恵」

「それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。」(伝道の書 1:18 口語訳)

1911年2月21日に文部省から文部博士の称号を贈るといわれた夏目漱石が、
「自分に肩書は必要ない」といって博士号を辞退したこの2月21日は「漱石の日」とされます。
ところでこの漱石の脳はホルマリン漬けされ東京大学に保管されているとのこと。
1425グラムで男性では平均的な重さ。
アインシュタインの脳は1230グラムで平均よりも軽いので脳の重さと頭の良さの相関関係はないらしい。
ところで頭の良さで際立つ人物はソロモン王です(列王上5:9、14参照)。
上記はソロモンの言葉。頭が良ければ幸せかというとそうでもないようです。
悩みが多く」「憂いを増す」という。
素直に「私は神様の傑作である」と解釈し喜び、今日を歩めれば、感謝が生まれる気がします。

磯部豊喜

みことばの花 200220「うから」

みことばの花 200220「うから」

「するとイエスは人々にむかって言われた、『神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである』。」(ルカ8:21 口語訳) 

古い讃美歌の一節に「友もうからも 我を待つらん」(日本キリスト教団1954秋出版の讃美歌489番1節)という一文があります。
「友も」はわかりますが「うから?」がわからないので、もちろん「おから」ではないと確信しつつも辞書を調べましたら
私の所有する小辞典には記載されていませんでした。
そこでネットで調べたところ、「血族」とありました。兄弟姉妹ということなのでしょう。
ところでキリストは、肉における血族以上に親密な存在があるとここで言っておられます。
それは神の御言葉で結ばれている者たちです。
教会では、お互いを兄弟姉妹で呼び合います。まさに聖書で結ばれた「うから」なのです。
この兄弟姉妹はなかなか良いものです。共に祈り合えるのですから。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200219「代表」

みことばの花 200219「代表」

「それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。」(Ⅰコリント 15:21 口語訳)

「イエスの死によって私たちが救われるというけれど、この昔の人の死がなぜそうなるのかわからない」という疑問を時々耳にします。
これは無理からぬ疑問だと思います。昔、国と国の代表となったその国のエース同士が戦って勝ったほうが勝利するという事実がありました。
かつて人類の祖先アダムが悪魔の誘惑に敗北し罪を犯した、その結果人類全体が敗北の憂き目にあっていると聖書は語ります。
実はそれと同じように、今度はキリストが来られて悪魔の誘惑にあった。
キリストの場合はこの誘惑に完全に勝利して罪を犯さなかった。
その証明が十字架の死であり復活です。
これも実は人類の代表となられた方の姿。
ですからキリストの十字架も復活も、私の代表として受け止めて良いのだと聖書は約束するのです。

磯部豊喜

みことばの花 200218「北風と南風」

みことばの花 200218「北風と南風」

「北風よ、起れ、南風よ、きたれ。わが園を吹いて、そのかおりを広く散らせ。」(雅歌 4:16 口語訳)

北風と南風がここに登場。北風は冷たく、南風は暖かい。北風と南風、どちらが私の好みでしょうか。
この冬、日本列島の日本海側は雪、太平洋側は暖冬と聞きます。
ところでこの北風と南風が人生には共に大切な気がします。
北風と太陽の童話を思う。強い北風は人からマントを奪えず、太陽に暖められた人はマントを脱ぐという話。
この童話では太陽が勝利者。
ですが、よく読むと厳しい北風があるので、太陽が際立つ。北風という人生のわき役があることで、太陽は主役になれる。
実は、北風も南風も二つで一つ。
もし、南風ばかりだと今度は暑くて耐えられない、この時は北風が心地良い。
北風、南風、共にあって私の人生の園はかおりを広く散らすのです。主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜